書きたくない書類

竹田寿之

 その朝、ぼくは学会発表の予稿集に載せるための原稿の案を練っていた。
 締め切りは明後日である。明日にでも速達扱いで学会事務局に出せば十分に間に合うだろう。
 とはいえ、最終的な発表原稿ではない。ちゃっちゃっと書き上げ、独断で書いて出してもよいのだろうが、あいにくとぼくの上司は部下のその手の独断専行をもっとも嫌う人である。

 実際、今回の学会発表を申し込んだ際にも、発表内容を分類して会場を割り当てるために申し込みの書類に高々100字程度の要旨を付ける必要があったのだが、こいつをざっと書いて提出し、その旨事後報告をしたら、一時間近くも椅子にふんぞりかえったまま、ねちねちと非難された。その間こちらは立ちん坊である。
 そのあと、一応提出した原稿のコピーを見せろと言われ、いやな予感を抱いたぼくは、
「一応見てはいただきますが、もう、原稿は提出ずみですから、お忙しい中でもありますし、わざわざお時間を取って直していただくには及びません」
と申し出たのだが、
『文章の変なところを直してもらっている分際で何を言うか。馬鹿者』
と部下の姿勢なるものについて長々とお説教を頂いた上、文章をけちょんけちょんにけなされた挙げ句、原稿が真っ赤になるぐらい赤のボールペンで直されたのだった。

 やはり、あの上司の性格を考慮すれば、一応相談の上文章を作り、添削をしていただくという形を取るのに越したことはないだろう。(実はぼくのこの目論見は全く見当違いも甚だしかったことが後に分ったのだが、この時点ではぼくはそのことを知るよしもない)

 とりあえず、こういう文章を明日までに作る必要があるので、見てはもらえまいかと上司に相談を持ちかける形にして話をしてみると、一刻も早く基本的に何を発表するのかというポイントのみをまとめて出してくれと言う指示がでた。ちゃんとした文章にしてから見てもらうつもりだったのだが、そうまで言われてしまっては、とりあえず早急にポイントのみを箇条書きにして持って行くより他はない。なにしろ、部下の仕事の遅いことが全く我慢ならない人なのだ。

 「あのう、すみませんが、キーワードと主張の骨子を箇条書きにしてきてみましたので、見ていただけますか?」
と声をかけてから、原稿を上司の机の上に滑らせる。
 ところが、つい先ほど自分で出した指示すらまるっきり忘れているのであろう。持っていった原稿をちらりとも見ずに、
『文章にしてみなければわかるわけないじゃないか。馬鹿たれが。とりあえず文字数だけは学会の指示に合わせて文章を作ってそれから見せに来るのが常識だろうが。俺はこんなものを見てやれるほど暇じゃないんだ』
と言うが早いか、ぼくがそっと机に載せた原稿を片手で払いのける。原稿ははらはらと床へと落ちた。
 床に落ちた原稿を拾いあげて自室に引き取り、少し気を静めてからコンピュータの前に座った。文字数をあわせないといけないのか、やれやれ、そんなこと全体の文章の流れが固まってからやることだろうにと思いつつ、文字数をカウントできるエディタを使って、箇条書きにしたポイントに肉付けをしていく。文字数が指示されたよりも多くなったりしたので、書いては削りを繰り返し、やっと規定の文字数に納めて、再度上司のもとを訪れた。

「あの、とりあえず文章にして書いてみましたので、お忙しいでしょうが見ては頂けませんでしょうか?」
 ゆっくりと原稿を渡した。先ほどよりも声が卑屈になっていることが自分でもわかる。この人が機嫌の悪いときには、それこそ、そうっと豆腐を両手ですくうかのようなものの言い方をしないと、豆腐が崩れた瞬間に不機嫌が暴発して、いらぬ小言をねちねちと聞かされるはめになりかねない。
 メタルフレームの奥の爬虫類じみた目がプリントアウトにちらりとだけ向けられた。
 おかしいな、指示通りにしてきたのに、内容を読んだわけではないようだと思っていると、案の定、叱声が飛んでくる。
 『文章のフォーマットが学会の指示と違う。X字×Y行のはずじゃないか。俺はこんなものを見ていられるほど暇じゃないんだ。馬鹿たれが』
と言うが早いか、あたかも原稿をぽいっと投げ捨てるかのようにほうり出す。あたかも先ほどのVTRでも見るかのように原稿ははらはらと床へと落ちて行く。やっぱり今回も、部下に出した指示はまるっきり失念していらっしゃるらしい。
 こんな人でも上司である以上、その指示は絶対である。こんな程度で腹を立てていたのでは、この人の部下は勤まらない。「君、君たらずとも臣、臣たれ」という言葉もあるではないか。我慢、我慢。と自分に言い聞かせて自室に戻る。
 とりあえず、ワープロソフトにこれまで書いた文章を取り込み、学会に提出するときのフォーマットに打ち直しをして持っていこう。この程度のことは簡単なことじゃないかと自分をなだめて、原稿をプリントアウトし直した紙を持って、再度上司のもとを訪れる。

 今回はようやく読んでいてもらえるようである。赤のボールペンを持ち出し、何やら直しを入れているようだ。と ところが、とある言い回しに引っかかったようである。
『この言葉が良くわからないな。この言い回し、人口に膾炙しているのか?』
「このキーワード、この分野では常識ではないのですか」
と喉元にまで出かかったけれど、やめた。この人は目下の者に何かを指摘されたり、教えられたりすることを極端に嫌う人である。下手に口答えすると、それこそくどくどと30分以上に渡って部下の心得とやらを御説教されてしまうだろう。そこまでひどくはなくても、ろくなことにならないのはこれまでのつきあいで熟知している。
 だいたい、ぼくの世代で「人口に膾炙する」などという言い回しを知っているやつの方が圧倒的に少数派なはずだ。『この言い回しはポピュラーなのかな』とか、他に言いようもあるだろうに。以前もこの言い方をしていたことを耳にしたことがあるところを見ると、よほどこの言い方が好きらしい。何とかの一つ覚えもいいところである。 しかも、指摘されたキーワードはよほど特殊なものかと思ったら、自分としては結構よく耳にしている言い回しであった。
 確かにこれまでこの上司の研究してきたフィールドからは少し外れた領域かもしれないが、知らないのだとすると、それはとりもなおさず上司の勉強不足にすぎないと思うのだが。
 確か、この言葉は学会誌あたりにその道の権威の方が書かれた初心者向けの「解説記事」にすら載っている言葉のはずだ。自室に引き取ってから学会誌を広げると、案の定、探すまでもなくその言葉が姿を現した。
 さりげなくお諌め申し上げるには、学会誌をコピーし、赤線でも引いて原稿に添付するしかないのであろう。やれやれ、ますます仕事が増える。
 以前からの様子を見ていると、権威にはとことん弱い人なので、どうせならばできるだけその道の巨匠の文章を引用した方がよいのだろう。
 本来のお仕事である原稿の直しの作業もせねばならない。試しに赤ボールペンで書き込まれた文章をそのままタイプしてみた。ぼくの書いた元の文章とのつながりや言い回しがかなり奇妙なことに気付いたが、変に気を回して自分の指示と違うことをしたりすると、最終的にはぼくのやったことが的を射たことであったとしても、烈火のごとく怒る人であることはこれまでの付き合いから知っていたので、敢えてそのまま持っていくことにしようと思い、つながりの変な部分は直さずにタイプして持っていってみることにした。

 学会誌のコピーをつけて、
「あのー、この言い回し、この先生も使っておられますし、割とよく知られた言い回しだと思うのですが」
と言いながら、上司に見せた瞬間、あっと言う間に表情が憤怒へと変わった。どうやら、逆鱗に触れてしまったらしい。
 『こんなキーワード、少なくとも私は初めて聞いた。しかし、私が聞いたことがないということは、ようするにこの先生が言っているに過ぎないということであって、いまだ人口に膾炙した言い方ではないのだろう』
などとぶつぶつ言っている。
『第一、権威におもねるなど、いい若い者のすることじゃない。それに、文章の続き方が変じゃないか、ちゃんと俺の指示を読んで文章を直しているんだろうな』
 腹いせからか、原稿はやっぱり真っ赤になった。しかし、結局、例のキーワードに関しては今回は直しが入っていない。やっぱり権威には弱い人なのだ。仕方があるまい、つながりの変な所は自分なりに直して持っていくしかないのだろう。

 結局、文章のつながり方の変なところを自分なりに工夫して直し、持っていった。
 ところが、今度はいきなり文章に目を通すなり、さっき書きこみをした赤ボールペンの文章を一緒に持ってくるように指示が出た。
 「なぜだろう」といぶかしみつつ、ボールペンで真っ赤になった一つ前の原稿を持って行く。
 それを読みながら、今回の原稿と見比べ、
『ここも指示したことと違うことが書いてある、あそこもそうだ。なぜ指示されたとおりに直してこないのか』
と速射砲のごとく小言を乱射し始めた。
「あのぅ、先ほどとおっしゃっていることが矛盾しているのですが」
と言おうとしたが、やめた。この人が自分の世界に入って小言を言い初めてしまうと、部下が何を言おうが、全く耳を貸す人ではないことは、これまでの経験で痛いほどよくわかっている。言われるがままにまかせ、心に鎧をおろして小言の暴風雨が過ぎ去るのをただじっと堪え忍ぶしかないようだ。
 自室に引き取って、原稿にさらに直しを入れる。やっぱりぼくの文章と上司の直した所はそのまんまタイプしただけでは文章のつながり方が変になってしまう。でも、無理をしてつながりをなおそうとすると今回と同様にねちねちと小言を言われてしまうのだろう。仕方がないので指示されたとおりに直して持っていくことにした。

 今回は上司の部屋に入っていったときの、
「直されたとおりにタイプして持ってきました。しかし、これまでの文章とつながりかたが変になってしまいましたが、よろしいのでしょうか?」
という私のひとことが余計だったのであろう。いきなり叱声が降ってきた。
『なぜ文章のつながりが変だと思ったら自分で直さないのか。馬鹿たれが』
もう、どうでもよくなってきた。要するにこの人はぼくのことが気にくわないらしい。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ではないが、この人にとっては不快に思う相手の書いた文章すらも憎いのであろう。
 ついに、こちらの感じた不快感が顔に出てしまったらしい。目を伏せて少し横を向いた瞬間に、
『なんだ、その態度は、目上のものの言うことを素直に聞く態度か。これだから筑波大の学生はなっていないんだ。少なくとも俺の出た学校ではな・・・』
と、部下のありようについての小言を延々と聞くはめになってしまった。

 精神的にへとへとになりつつも、
「すみませんねぇ、原稿を直すために夜遅くまで残っていただいて」
と声をかけて原稿を提出する。もう深夜と呼んでもよい時刻になりつつあった。結局これまで晩ご飯すら食べる暇なしに原稿をなおしただけの一日である。晩ご飯のお総菜を買いに行く暇すらなかった。仕方ない、今夜はコンビニ弁当か。
 時間的に見て、これが最後であろう。そうであってほしい。ぼくとしてはもう、いいかげんにして欲しかった。  むこうも小言を言うのに疲れたのか、今回は黙々と原稿に赤を入れている。原稿はやっぱり真っ赤になって戻ってきた。ただし、最後に次のような説教付きで。
『仕方がないな、時間がないから、これで提出するしかないか、まったく、馬鹿の書く文章はやっぱりどんなになおしてやっても馬鹿げた文章にしかならないな。本当のところ、連名発表者の名前から俺の名前を外してもらいたいぐらいだ。どうせおたくは若輩者だから、予稿なんぞちゃんと見てくださる他校の先生なんぞいやしないのだろうが、これは訓練だからな。年齢が上がってくると、こういう原稿を書き上げる前にちゃんと見て批評してくださる方なんていなくなるんだからな。少しはありがたく思え』
 確かに御説ごもっともなところも少しはある。あるのだが、このような言い方をされたのでは聞いている側の反感をつのらせるだけで、全く逆効果にしかならないことをまるっきりわかっていらっしゃらないようだ。ふと気がつくと、あいつは既に帰り支度を整えていて、
『今夜中に直して、あすの朝一番に持ってくるように』
と言い置くと、さっさと自宅へと帰っていった。

 ため息をつきつつ、自室のマックで赤ボールペンで書き込まれたとおりに直しをいれてから、つながりのおかしな所を修正して行くとなぜだか文章にデジャヴを感じた。
 あれっと思って、保存しておいた最初に書いた文章と見比べてみると、さんざん直しを入れた挙げ句、結局最初の文章とほとんど変わらない。今日一日ぼくが感じてきた不快感は一体何だったのだろう。手近にあったごみ箱を思いっ切り蹴りあげると、すさまじい音を立ててごみ箱があっちへ吹っ飛んでいった。
 ・・・これで今日は結局七回もの辛抱をするはめになったのか。

 頭の中でふっと自分とは別の声がした。
『七回辛抱した男・・・』
 あれ?ごく最近どこかでこれによく似たタイトルの小説を読んだ覚えがあるぞ。このことに気付いた瞬間、なぜだかぼくは思わず腕時計を見ていた。ちょうど日付が変わろうとしているところだ。
 腕時計の長針が正確に12という数字を指した。その瞬間、カレンダーモードになっていた液晶部分の表示が一瞬次の日を示し、なぜか元の日の表示に戻った。
 ・・・あの小説と同じことが自分の身に起きてしまった・・・。
 ・・・ということは、明日、ではない、日付が変わったのだからもう今日か、最終的に書き直した原稿を持って行ったら昨日と同じようにねちねちと小言を受けながら文章の推敲をうけなくてはいけないのか。
 ・・・背中に冷たいものが走る。

 一瞬、はっとはしたのだが、よく考えてみると、ぼくは既に決定稿を手にしているわけだ。難癖をつけられた場所も分っている。昨日(1度目の今日)のようにねちねちといじめられることはないだろう。ほんの少しほっとした。

 しかし、一瞬の安堵の後、ぼくは気づいてしまった。今ぼくが手にしているのは確かに決定稿だが、結局初稿とほとんど同じものになってしまったわけである。
 つまり、今朝(2度目の今日)この原稿をあいつのところに持っていったとして、やっぱり昨日(1度目の今日)と同じように陰険にねちねちと難癖をつけられるのは同じことに違いない。

 そして、「七回死んだ男」と同じシチュエーションなのだとすると、こんなことが何度も繰り返すことになるわけだ。しかも、ぼくの場合、以前こんなことを経験したことがないため、あの小説の主人公とは違って、これから何回、同じことを反復することになるのか全く分らない。

 一日だけならば耐えられもするし、何回繰り返すのかが分っていれば、あいつの指示を馬耳東風とうけながしたり、それこそ本当に頭に来たら、極端な話、最終回以外はあいつをぶち殺してしまってもいいわけだ。
 正直な話、本当に一瞬だけだが、今日の仕打ちを思い出しながら、鉄パイプがあいつの頭にめりこんで行くさまを想像し、ぼくはカタルシスを感じた。
 そんな自分が本当にいやで堪らなかったのだが。

 ところが、ぼくの場合は、時間の反復が何回繰り返すのか全くわからないのだ。こんなことを何度も繰り返して、ぼくの精神は本当に耐えていけるのだろうか?きっといつかぷっつりと切れて本当にあいつの頭に鈍器か何かを振り下ろしてしまうのではないだろうか。そして、その回が時間反復の最終回だったとしたら・・・。

 ぼくはそれまで耐えに耐えてきていた自分の精神の糸がぷっつんと音を立てて切れるのを聞いた気がした。
 うあぁぁぁぁぁぁ!

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 その瞬間、目が覚めた。ぼくは思わず、がばと跳ね起きた。背中には冷たい汗が流れ、手や足の先が冷たく冷えている。
 起きたばかりだというのに、息が荒かった。
 そして、その時、ぼくの頭の中で閃くものがあった。
 そうか、「七回辛抱した男」じゃなくて、「殺意のつのる夜」だったのか。




(この物語はフィクションであり以下略)
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