有栖川有栖『海のある奈良に死す』について

文責:うえだたみお


 この作品では、殺人のトリックとして「サブリミナル効果」が使用されている。
 毒入りのウイスキーを被害者に渡す。そして、被害者がある特定のビデオテープを見るように仕向ける。このビデオテープには、意識することのできないほどの短い時間、ウイスキーの映像が挿入されている。この映像は被害者の意識下にはたらきかけ、ウイスキーを飲みたくなるように仕向ける。そして被害者は、毒入りウイスキーを飲む……。
 はたして、この方法で本当に殺人が成功するのだろうか?
 答ははっきりしている。不可能だ。サブリミナル映像になんの効果もないことは、すでに証明されている。

 まず、有栖川も作中で言及している映画館での実験について。
 これは、ジェイムス・M・ヴィカリーという人物が1957年にニュージャージー州フォートリーの映画館で、6週間に渡っておこなったとされる実験だ。当時上映されていたウイリアム・ホールデン主演の映画『ピクニック』の中に、3000分の1秒というほんの一瞬だけ「コーラを飲め」「ポップコーンを食べろ」というメッセージを5秒毎にフラッシュさせて上映した。すると、ポップコーンの売り上げが57.5%、コーラの売り上げが18.1%も上がったというのだ。(Adversting Age, Sep 16, 1957)
 これは、サブリミナル効果というと必ず引き合いに出される話だが、一度も論文にされたことがない。1958年、アメリカ広告調査機構がヴィカリーに対し詳しい実験データを提出するよう求めているが、結局データは提出されなかった。(Skeptical Inquirer, Spring, 1992)
 実は、のちほどヴィカリー自身がこの「実験」の真相について告白している。彼は、サブリミナル効果を起こす機械を売る会社を設立し、特許を取って儲けようと考えていた。しかし、本格的な実験をはじめる前に話がマスコミに漏れてしまい、「何も実験ができていなかった」「データは少なすぎて意味がなかった」というのだ。つまり、57.5%とか18.1%などというもっともらしい数字には意味がなく、最初の報告からしてすでに「作り話」だったのである。(Adversting Age, Sep 17, 1962)

 1958年2月にカナダの放送局CBCが興味深い追試をおこなっている。同局の『クローズアップ』という30分番組の中で、サブリミナル映像を計352回投射させてみたのである。そして視聴者に、この番組中に何を感じたか手紙に書いてもらうように要請した。CBCには500通余の手紙が寄せられたが、半分近くの手紙が「無性に何かを食べたり飲んだりしたくなった」と書いてきた。しかし、番組中に流したメッセージを本当に当てた手紙は一通もなかった。実際に送られたメッセージは、「今すぐ電話をかけろ(Phone, Now)」だったのだ。
 この番組放映中に全部で14本の電話が寄せられたが、その内容は「メッセージの中身を教えてほしい」という類のものに過ぎなかった。つまり視聴者は、実際に送られたメッセージではなく、「コーラを飲め」「ポップコーンを食べろ」という「サブリミナル伝説」の方に敏感に反応していただけだったのだ。(Adversting Age, Feb 10, 1958)

 この他、サブリミナル効果に対する追試は何度もおこなわれているが、ことごとく否定的な結果が出ている。(Pseudoscience and Paranormal, Terence Hines, Prometheus Books, 1988 『ハインズ博士「超科学」をきる』1995年,化学同人)
 全米科学アカデミーの米学術研究会議が米軍からの依頼でサブリミナルテープ(聴覚に訴えるサブリミナル効果)に対しておこなった研究では、「我々は、サブリミナルテープが人間の能力を増すという主張を支持するような理論的な根拠も実験的な証拠もどこにもないと結論する」との報告がなされている。(In the Mind's Eye Enhancing Human Performance, National Research Council, 1991)
 カナダのヨーク大学グレンドンカレッジのティモシー・ムーア助教授(心理学)は、「サブリミナルな指令が動機や行動に影響するという意見は、膨大な量の調査結果によって否認されている」と結論している。(Subliminal Advertising, "What You See is What You Get", Journal of Marketing, Spring, 1982, 38-47)

 そもそも、有栖川が「参考資料」として使用しているブライアン・キイの『メディア・セックス』自体、かなり怪しげな本で、リッツ・クラッカーには「SEX」という文字が書き込まれているとか、広告のウイスキーの氷の中には男根が書き込まれていて購買意欲をそそっているのだ、などという奇妙な主張で満ちあふれている。
 しかし、クラッカーの表面にSEXという文字が書かれているなどと主張しているのはキイだけであり、本当に書かれているのか、クラッカーの表面を使ってキイが「ロールシャッハテスト」を試みているのか、読者にはどうも区別がつかないのだ。どんな写真にでも幽霊の顔を必ず見つけてしまう「心霊写真研究家」と、どこが違うのだろうか?

『海のある奈良に死す』の単行本が発売されてから3年。
 私が気付くくらいだから、他にも気付いた人はたくさんいるはずなのに、それらの指摘は有栖川の元へ届いていないのだろうか。それとも、指摘されたが修正しようがないのでそのままにしてあるのだろうか。
 あとがきにも解説にも、この件に関する記述はない。