第24回   『意味』の意味 1996.10.9


 さて、今日のネタは「意味論」です。もしかしたら、「メタ意味論」かも知れません。‥‥いや、「メタメタ意味論」かも。

 「あの人の文章は意味不明だ」あるいは「意味明瞭だ」と言うときの『意味』という言葉、この言葉はどういう意味を持っているのだろう。
 ある辞典には、この『意味』の意味について、かなり詳しく説明されている。それを見ていくことにしよう。

 まず最初に説明されているのは、中心的意味である。
 これがおそらく、普通に『意味』と言ったときの意味で、要するに、ある語がどのような現実や思考と結びつくか、をあらわしている。「真四角」と「正方形」は意味が同じ、という意味での『意味』である。

 さらにこの中心的意味は、語彙的意味文法的意味とに分かれる。
 たとえば、「咲いた」という言葉の意味は、「咲く」に近いだろうか、それとも、「散った」に近いだろうか。よほどのへそ曲がりでない限り、「咲く」の方に近い、と言うに決まっている。花のつぼみの動きや変化という作用に注目すれば、「咲いた」も「咲く」もほとんど同じだからだ。
 しかし、その作用が実現する過程を軸として考え直すと、「咲く」はまだつぼみが開くという現象が実現していないのに対し、「咲いた」は花びらの開いた姿が現実になったことを示している。その点でむしろ、「散った」に近い意味を持っている。  すなわち、花びらが広がるという意味を語彙的意味と呼び、ある動作なり現象なりがすでに終わっているという過去とか完了とかに関する意味を文法的意味と呼んでいる。
 この文法的意味はもちろん、過去や完了に関するものだけではない。「笑われる」と「泣かれる」に共通する受け身の意味、「笑わせる」と「泣かせる」に共通する使役の意味など、さまざまなものが存在する。

 このような論理的な意味情報以外にも、あらたまりの程度といった文体的意味、好き嫌いといった感情的意味などの情緒的な意味情報も存在し、『意味』というものは、中心的な意味にこのような周辺的な意味情報が合わさった統一体として捉えるべきだろう。

 さらに言葉には、「語感」というものが常につきまとう。
 この「語感」というものは、この辞典では「類義語の微妙なニュアンスの差」「ある語が指示する中心的意味以外に、その語の持つ感じ、におい」と説明されている。こういう周辺的な意味の方が、中心的な意味よりはるかに複雑であり、曖昧であり、微妙である。
 「美人」という言葉と「佳人」という言葉を比べてみると、前者がごく一般的な語であるのに対し、後者は主として書き言葉の、かなり改まった表現の中で使われる上品な言葉である、という違いがある。
 また、「あした」も「あす」も「みょうにち」も、「きょう」の翌日であるという点についてはまったく意味の違いはない。にもかかわらず、私たちは通常、何らかの基準で、意識的にあるいは無意識に、それらを使い分けている。「言う」も「おっしゃる」も「しゃべる」も「ほざく」も「ぬかす」も同じ意味だからといって、「おっしゃる」と言うべき場合に「ほざく」などと言ってしまうと喧嘩になってしまう。たかが用語と言っても油断はできない。

 候補となるいくつかの言葉の組み合わせのうちからひとつを選ぶ際に、頭の中ではたらく判断基準はおそらく多種多様だろう。どの言葉にも、何らかの色やにおい、あるいは肌ざわりのようなものが備わっているからだ。
 それぞれ何をさすかという点での意味の微差をつかむことも重要だが、同時に、それらの言葉にまつわりついているにおいのちがいに似た意味の微差をつかむことも重要だろう。「語感」の鋭い人は、この両方の面で言葉を適切に選び、微妙に違う言葉の中から、相手や場面やその他の条件に合わせてもっともふさわしい一語を選んで、『意味』を伝えることができるのだから。

 さて、今日の私の文章だが、『意味』は正しく伝わっただろうか?
 私の意味する『意味』と、あなたの意味する『意味』は、はたして同じものだろうか?
 そして、この「意味する」というときの『意味』は、はたしてどの意味での『意味』で‥‥、ああ、もう、ややこしい。


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