第112回   小さな故意の物語 1997.1.31


 昨日は、課長の昇進祝いの宴会だった。その二次会でのことである。
 私は本当は早く帰りたかったのだが、新しい課長にはやはり、いろいろとゴマをすっておく必要があるだろう。考えることはみな同じで、森安、庄司、西山、阿部、鶴田といった同僚たちもついてきた。ゴマすりあうも課長の宴、である。

 二次会の会場は、小さなスナックだった。残念ながら、店名は明かすことはできない。仮に『A』としておこう。その店の客は、私たちの他にはカウンターに女性が一人すわっているだけだった。
 その女性は、小泉今日子に似ていた。と言えばすでにおわかりかもしれないが、一目見た瞬間、私はその女性に惚れてしまったのだ。

 テーブル席で課長を中心に飲んでいるときも、私はその女性のことが気になって仕方なかった。私は折りを見てトイレに立つと、テーブルには戻らず、その女性のとなりに座った。幸い、同僚たちは皆、課長を囲んで盛り上がっていて、こちらには気付いていないようである。
 その女性は、美奈といった。

「洗濯物を干すときは、雨の日や曇りの日は避けた方がいい、と細野晴臣も言ってるぞ」
「ホントに?」
「うん。干すの晴れのみ」

「でもやっぱり、洗濯機は全自動がいいな。沢田研二もそう言ってるし」
「ホントに?」
「うん。全自動だと、勝手に仕上がり」

 ‥‥などとくだらない話をしているうちに、美奈と私はだんだんと打ち解けてきた。私は美奈の胸をちらっと見た。小ぶりの、かわいい胸だ。これも私の好みである。私は、美奈の胸にそっと手を伸ばした。かわゆいところに手が届く、というやつだ。
 しかし、美奈は私の手首をつかむと、ゆっくりと押し戻した。
「だめ」
「‥‥ち、違う、わざとじゃないんだ。ちょっと手がすべっただけで‥‥」
「うそ。わざとやったんでしょ?」
 ダメだ。失敗だった。やはり、性急すぎたか。私の恋は三十分で終わった。まいった。まいったなの恋、である。

 そして今日、出勤すると、昨日のことはすでに会社中に広まっていた。あちこちで私のうわさ話をしている。A店で「行為」をして〜、といううわさだ。なんということだ。
 話を聞いてみると、うわさの発信源は阿部と庄司のようだ。あの二人、気付かないふりをしてしっかりと私のことを観察していたらしい。これから気を付けるようにしよう。何しろ、阿部に耳あり庄司に目あり、だからな。


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