第132回   自転車に乗って 1997.4.29


 今日は四月二十九日、天皇誕生日である。天気もいいので、午後から自転車で摂津峡に出掛けることにした。
 国道から北へ登る狭い山道を自転車で走る。周囲の木々が初夏を思わせる陽射しに映える。吹き出る汗を手拭いで拭きながらペダルを踏んだ。
 しかし、分かれ道をいくつか過ぎるうちに、道に迷ってしまったらしい。いつまでたってもお目当ての摂津峡にたどり着かなかった。他に通る人もいない。
 ついに陽が傾きかけてきた。摂津峡に行くのはあきらめ、引き返そうと思ったが、当然帰り道もわからない。山を下る方向に行けばいいはずだが、道は上り下りを複雑にくり返していて、どこへ向かっているのか全くわからなかった。
 途方に暮れていると、前を歩く人がいた。迷ってから初めて見る人である。自転車を漕いで近づいていく。二十歳くらいの女性で、白いワンピースを着ていた。これといって特徴のない面立ちだったが、左目の下に手術痕のようなものが横に走っているのが気になった。とりあえず、国道に戻る道を聞くことにする。
 その女性は丁寧に道を教えてくれた。礼を言って再び走り出す。しかし、教えられたとおりに走っているはずなのに、いつまでたっても国道に出ない。それどころか、また同じ道に戻ってきたような気がする。もう一度道を尋ねようとあたりを見渡すと、前方に中年の女性がいるのが見えた。その女性に道を聞く。
 今度こそ、間違えないように教えられたとおりに走ろう。そう考えながら自転車を走らせていたが、気になることがあった。今の中年女性の顔にも、最初に道を聞いた若い女性と同じ位置に同じような傷があったのだ。顔もどことなく似ているようだった。
 あまり気にしないようにしよう。それより今は、国道にたどり着くことが肝要だ。必死に自転車を走らせたが、相変わらず同じような山道が続いているだけだ。また道に迷ってしまったか。そのとき、前方に老婆の姿が見えた。仕方ない、もう一度聞いてみるか。近づいていき、後ろから声をかけた。
 老婆が振り返る。その顔を見て驚いた。老婆の顔にも、やはり、同じ位置に同じ傷があったのだ。もはや道を聞くどころではなかった。必死に逃げ出す。
 そのあとは、どこをどう走ったのか記憶にない。気がつくと、商店街のようなところに出ていた。しかし、記憶にない町並みだ。近所にこんなにぎやかなところがあったのだろうか。
 そのまま自転車を走らせていたが、通る車も人も、どことなく違和感があった。ふと、ある店の奥にある日めくりに目がいった。そこには、「平成9年4月29日」と書いてある。平成? 平成とは何だろう、と一瞬気になったが、すぐに、電器屋の店先に目を奪われた。大きなテレビジョンがいくつも並んでいる。そういえば、今年の二月一日に放送が始まったらしい。こんなに綺麗に映るのか。まるで映画のような総天然色だった。
 しかし、テレビジョンに見とれている場合ではなかった。さらに自転車を走らせると、見覚えのある今城塚古墳が見えてきた。よかった、これで家に帰れる。夕闇の中、ペダルを踏む足に力がこもった。


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