第147回   十三回目のノックの音 1997.8.4


 ノックの音がした。
 おれは思わず、玄関の方を振り返った。大丈夫だ。ちゃんと鍵はかけてある。
 再びノックの音がした。
 息をひそめる。今、この家に人がいることを気付かれてはならない。死体の足をひきずってバスルームへ運ぶ途中の苦しい姿勢だったが、おれはそのまま硬直していた。
 さらに三度目のノックの音。しつこい。
 しばらくすると、新聞受けに何かを投入する音がした。そして、立ち去る足音。
 おれは胸をなでおろした。

 ここは石井のマンションだ。そして、持ち主の石井はもういない。なぜなら、さっきおれが殺したからだ。そう、今おれがひきずっている死体、これが石井である。
 一時間ほど前、おれはこの家にやって来た。石井は疑いもせず、いつものようにおれを中に入れた。そして奴が後ろを向いた隙に、持ってきたナイフで心臓めがけて背中を刺した。拍子抜けするほど簡単だった。
 石井は即死した。死に顔には、驚愕の表情が貼り付いていた。おれに殺されるとは夢にも思わなかったに違いない。おれだって昨日までは、石井を殺すことになるとは思わなかった。
 しかし昨夜、おれは聞いた。石井はおれの女に手を出したのだ。隠れてつきあっていたから、おれの女だとは思わなかったのだろう。だが許すことはできない。おれは即座に石井を殺すと決意し、そして今日実行したのだ。
 もちろんおれは、殺人罪で捕まる気はない。捕まらないための手は、ちゃんと考えてあった。その「手」は、バスルームにある。
 このマンションのバスは、最新式のプログラムタイプである。単なる温度調節だけでなく、何時に沸かしはじめて何時に切る、そういった細かい設定がタイマーによって可能なのだ。
 このバスに石井の死体を入れ、温度をうまくプログラムしてやれば死後経過時間をごまかすことができる。その間に、おれはアリバイを作っておく、という寸法だ。最後に湯を落とすところまでプログラムできるので、このトリックは絶対にバレない。われながら見事なトリックである。

 そういえば……さっきの訪問者は、誰だったのだろう? 新聞受けに何かを入れていったようだが。
 放っておけばいいのだろうが、どうも気になる。おれは新聞受けを確認した。中に入っていたのは、一枚の紙だ。ガス会社の名前が書いてある。
『ガス供給停止のお知らせ
 ……度重なるガス料金の未納により……やむを得ず、ガスの供給を停止させていただきます……なお、供給の再開については……』
 ガス供給停止だと! おれはあわてて日付を確認する。今日からだ。まずい。トリックが使えなくなる。おれはあわてて、バスルームへ駆け込んだ。
 よかった。このバスは電気温水器を使用するタイプのようだ。ガスが止められてもトリックに不都合はない。
 それにしても、ガス料金くらいちゃんと払っておけよ。おれは石井の死体を蹴飛ばした。

 ノックの音がした。
 四度目である。また誰か来たようだ。おれは息をひそめて、訪問者が立ち去るのを待つ。
 さらに二回のノックの後、立ち去る足音が聞こえた。しかし、この訪問者も新聞受けに何かを入れていったようだ。いやな予感がする。おれはすぐに確認した。またもや、一枚の紙だ。水道局の名前が書いてある。
『水道供給停止のお知らせ
 ……度重なる水道料金の未納により……やむを得ず、水道の供給を停止させていただきます……なお、供給の再開については……』
 水道供給停止だと! おれはあわてて日付を確認する。今日からだ。まずい。トリックが使えなくなる。おれはあわてて、バスルームへ駆け込んだ。
 よかった。浴槽には残り湯があった。なんとかトリックは実行できそうである。
 しかし、なんて奴だ。ガスだけでなく水道料金まで未納とは。おれは石井の死体を蹴飛ばした。

 ノックの音がした。
 今日七回目だ。いいかげんにしてくれ。おれはうんざりしながら息をひそめた。
 さらに二回のノックの後、訪問者は立ち去っていった。しかし、やはり新聞受けに何かを入れていったようである。内容は大体想像がつくが、おれは確認に行った。一枚の紙だ。電力会社の名前が書いてある。
『電気供給停止のお知らせ
 ……度重なる電気料金の未納により……やむを得ず、電気の供給を停止させていただきます……なお、供給の再開については……』
 電気供給停止だと! おれはあわてて日付を確認する。今日からだ。まずい。トリックが使えなくなる。おれはあわてて、バスルームへ駆け込んだ。
 しかしもちろん、駆け込むまでもなかった。電気が止められては、おれの考えたトリックが使えないのは明白である。
 まったく、どうしようもない奴だ。おれはとりあえず石井の死体を蹴飛ばしておいてから、善後策を考えはじめた。
 氷を使うのはどうだろう? 近くのコンビニで氷を買ってきて……。いや、もし店員に顔を覚えられたらどうする? では、他にどんな手が……。

 ノックの音がした。
 これで十回目である。今度は電話停止のお知らせか? しかし、電話はおれのトリックには関係ない。止められても痛くもかゆくもないぞ。ははは。
 さらに二回、ノックの音がした。これで十二回目か……。おれはぼんやりと、そんなことを考えていた。
 しかし、今度の訪問者は立ち去らなかった。ドアの外で声がする。
「石井さん! いいかげんにしてください! もう何カ月家賃をためていると思ってるんですか! 今日こそ払ってもらいますからね! 居留守を使ってもダメですよ! ちゃんと合い鍵を持ってきてるんですから! 今日は私ひとりじゃありませんよ。頼りになる取り立て人を、二人連れてきてますから、何がなんでも払ってもらいます! 鍵を開けますよ、いいですね!」
 そして十三回目のノックの音がした。続いて、鍵を開ける音が。
 おれはぼんやりと、それを聞いていた。


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