第207回   嘘ならいいのに誘拐事件  1998.9.10





 目が覚めると、そこは見知らぬ部屋の中だった。
 後頭部がずきずきと痛む。手をあてようとして、おれは両腕が縛られているのに気がついた。
 腕だけではない。足も縛られていて、身動きさえままならない。さらに猿ぐつわまでかまされている。そんな状態で、おれは床の上に転がっていた。
 回らない頭を無理に動かして、あたりを見回す。家具の少ない殺風景な部屋だ。小さなテーブルの上にはジュースやビールの缶が乱雑に並び、その口からは煙草の吸い殻がはみ出している。その横にあるのは漫画雑誌の山、ビニール製のゴミ袋、古ぼけたテレビ。部屋の端には汚いベッドが置かれ、窓にかかったカーテンはくすんでいる。どうやらワンルームマンションの一室のようだ。部屋にいるのはおれ一人。
 なぜおれはこんなところにいるんだ。しばらく考えて、ようやく記憶がよみがえってきた。昨夜、いや、どれくらいの間寝ていたのかわからないので昨夜とは限らないが、夜道を歩いていたおれは突然頭を殴られたのだ。反射的に振り返ろうとした途端、第二撃が来た。薄れゆく意識の中で、おれは殴った者の顔をかいま見た。田渕。行きつけの飲み屋で何度か見た程度で、話はほとんどしたことはない。倒れ伏したおれの耳に、田渕のささやく声が妙に大きく響いてきた。悪く思うなよ。身代金を取ったら、ちゃんと返してやるからな。その言葉を聞きながら、おれは気絶した。

 なんてことだ。おれは田渕に誘拐されたのか。すると、ここは田渕の部屋だろう。
 しかし、よりにもよってこんなときにおれ自身が人質になるとは。運命の皮肉と言うべきか、まったく間抜けな話である。なぜなら、おれも今、ある男を誘拐している最中で、おれの部屋には同じように人質の男が縛られて転がっているのだ。
 動機は単純なものだ。要するに金である。ギャンブルにのめり込んでサラ金から借金を重ね、返済の期日も迫ってどうしようもなくなったおれは、半ば衝動的に誘拐を実行に移した。人質は、飲み屋で知り合った渕上という男である。一人暮らしだが、田舎の両親がけっこう資産家だという話だった。
 ところが、誘拐したのはいいが具体的な計画が何もない。脅迫電話のかけ方や身代金の受け渡し方法など、考えていなかったのだ。頭をひねってみたが、逮捕されずに身代金を受け取る方法などそう簡単に思いつくものではない。ちょっと気分を変えようかと思い、縛った渕上を部屋に残して夜の街の散歩に出掛けたところ、田渕に誘拐されてしまった、というわけである。誘拐犯が誘拐されるなど、笑い話にもなりはしない。

 その散歩の途中、おれは誘拐というものについて少々考察を巡らせていた。
 誘拐においては、利害の対立する当事者が三者いる。犯人と人質の家族と警察だ。そして、利害の対立するポイントも三点あって、身代金を受け取れるかどうか、犯人が逮捕されるかどうか、人質が無事戻るかどうか、である。
 まず、犯人にとっては、身代金を受け取って逮捕されずに逃げおおせる、という結果がもっとも望ましい。この場合、人質の生死は大して重要な問題ではない。いやむしろ、逮捕される可能性を考えれば、重要な証人になりうる人質は殺してしまった方がいいだろう。もちろん、人質を殺すかどうかで罪の重さも変わってくるわけだが、それは逮捕されれば、の話だ。逮捕されたときのことを考えていたら誘拐などできはしない。
 次に、警察にとっては、もちろん犯人逮捕がもっとも望ましい。身代金を取られたとしても犯人を逮捕すれば戻ってくるだろうし、万一犯人が使い込んだりして戻ってこなかったとしてもそれは裁判で決着をつけることだ。警察の領分ではない。問題は人質の生死だが、あまり大きな声では言えないが、実はこれはどうでもいいことなのだ。もちろん、殺されるよりは助かった方がいいのは確かだが、それが最優先されることはない。
 もっとも望ましい結末は、犯人が逮捕され人質も無事に戻る、というもの。もっとも望ましくない結末は、犯人に逃げられ人質も殺される、というもの。これは明白だろう。では、その中間はどうか。犯人には逃げられたが人質は無事だった、という場合と、犯人は逮捕できたが人質は殺された、という場合だ。これは、世論の批判の矛先がどこへ向けられるかを考えればわかるだろう。たとえ人質は助かっても、犯人に逃げられては警察は批判される。犯人逮捕こそ、警察の使命なのだから。たとえ人質が殺されたとしても、犯人さえ逮捕できれば批判の大部分は犯人に向けられるので大丈夫である。
 もちろん、人質の生命より犯人逮捕の方が重要だ、などとはおもてだって言えはしないが。
 では最後に、人質の家族にとってはどうか。これはもちろん、人質の生命がもっとも重要だろう。
 だが、一般論としてはそのとおりだが、おれが誘拐した渕上の場合は少々事情が異なる。この男はどうしようもないろくでなしで、両親からも愛想を尽かされているのだ。周囲の評判も最低である。こいつが死んでくれれば、両親としても厄介払いができたと胸を撫で下ろすのではないだろうか。それどころか、すでにこの世にいない、というだけの理由で、「あの人にもけっこういいところがありました」などと誉めてくれる人も出てくるかもしれない。要するに、死んだ方がいい人間、ということだ。
 待てよ。だとすると、渕上の両親はちゃんと身代金を払ってくれるだろうか。心配だ。

 いや、渕上の身代金など心配している場合ではない。今は、ややこしいことに、このおれが田渕に誘拐されて人質になっているのだ。しかも、両親から愛想を尽かされている点ではおれも渕上と似たり寄ったりである。やばいことになってきた。田渕はおれを殺すつもりだろうか。
 しかし、その田渕はなかなか姿を見せなかった。時計がないのでよくわからないが、おれが気絶から覚めてから半日以上は経っているようだ。おれを置き去りにしたまま、田渕はどこへ行ったのか。身代金の受け取りに失敗して逮捕されたのだろうか。ならば、警察がおれを救出に来てもいいはずだが。まさか、このままこの部屋の中で餓死、などという結末にはならないだろうな。おれは不安と焦燥に駆られながらも、どうすることもできなかった。おれが誘拐した渕上、やつも今頃は同じようなことを考えているだろうか。

 それからさらに半日ほど、おれはずっと縛られたまま転がっていた。トイレはどうしたのか、などという屈辱的な質問はしないでくれ。不安と疲労と空腹で意識が朦朧とし始めたとき、ようやく事態に進展があった。ドアの鍵が開く音が聞こえたのだ。
 田渕が帰ってきたか、と思いきや、無言で上がり込んできたのは大勢の男たちだった。スーツにネクタイを締めた者や、制服姿の者もいる。警察だ。どうやら命だけは助かったようだ。警官のうちの一人がおれの前にしゃがみ込み、猿轡をはずしてくれた。他の者は部屋のあちこちを調べ回っているようだ。
「もう大丈夫です」
 その警官は言った。おれはかすれ声で答える。
「ああ……すると、田渕は……逮捕されたんですね」
「ええまあ、逮捕というか保護というか……」
 警官は口を濁す。
「実を言うと、田渕はある男に誘拐・監禁されていたんです。で、その男の部屋に行って田渕を保護したまではよかったのですが、田渕が言うには、おれも別の男を誘拐して部屋に監禁しているところだ、と。そして、その言葉に従って田渕の部屋に来てみれば、本当に人質……つまり、あなたが監禁されているじゃないですか。いったい何がどうなっているんだか。頭が混乱しそうですよ。田渕を誘拐した男も、今はどこにいるのか行方不明だし」
 なんとなく、いやな予感がした。おれは、その警官に聞いてみた。
「その、田渕を誘拐した男、というのは、一体誰ですか?」
「え? ああ、その犯人は、渕上という男です」
 やっぱりそうだったか。
 この警官に、渕上は私が誘拐して部屋に監禁しています、と言えば信じるだろうか。信じないだろうな。




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