第312回   ネブカドネザルの呪縛  2000.5.25





 トイレと言えば落書き、落書きと言えばトイレ、トイレは落書きの宝庫である。
 その中でも落書きが特に多いのは、駅のトイレだろう。もちろん、デパートや会社のトイレにも「野村課長、死ね!」とか「野村課長、好き♪」などと書かれていることはあるが、そういう場所の落書きは、清掃員あるいは野村課長本人あるいは恋敵によってすぐに消される運命にある。ところが、駅の落書きはなかなか消されないのだ。だから、面白い落書きを目撃する機会も多い。中には、なるほどと感心するようなものまである。

 そんなトイレの落書きと言えば、小用の便器の上に「もう一歩前へ、君のはそんなに長くない」などと書かれていることもあるが、しくしく、ほっといてくれ。いやそうではなくて、小用の方はバリエーションが少ない。やはり面白いのは個室の方の落書きだ。人目を気にせずにゆっくり考えて書けるからだろう。
 そんな個室の落書きでオーソドックスなものは、「よう来たな、まあ座れや」とか「カミに見放されたら、自らの手でウンをつかめ」とか「河童に注意」などだろうか。中には、正面の壁に「後ろに書いてあることはウソだ」、後方の壁に「前に書いてあることは本当だ」など書いている凝ったものまである。
 その他、「私に電話してください」「阪神また負けた」「あふりか象が好きっ」「死愚魔参上」「ロックを愛しロックに生きた男ここに眠る。ぐうぐう」「これは不幸の落書きです。この落書きを見た人は同じ落書きを十ヶ所のトイレに書いてください。馬鹿にして書かなかった埼玉県の大西さん(仮名)は尻子玉を抜かれました」「ペット同伴可」「明和九年の洪水時、ここまで水が来ました」「食べたら死ぬで」「も〜しも〜し便器でささやくお二人さん」「驚くべき証明を発見したが、ここには書く余白がない」など、まさしく百花繚乱である。
 そして忘れてはならないのは、絵の落書きだ。もちろん、絵と言っても、ゴッホの『ひまわり』やピカソの『ゲルニカ』などではない。ゴヤの『裸のマハ』ならちょっと近いかもしれないが、そう、描かれているのは俗に言う春画だ。トイレの春画だからと言って馬鹿にしてはいけない。中には、非常に緻密に描かれたものもあるのだ。春画周到である。石井隆風、中森愛風、内山亜紀風、やまぐちみゆき風、どうも例に挙げた漫画家が古くて申し訳ないが、とにかくその画風もバリエーションに富んでいる。蛭子能収風、いしいひさいち風、杉浦茂風、針すなお風など、どうやったらそれで興奮できるのかはなはだ疑問なものもあるが、これはまあウケ狙いだろう。
 さらに春画以外の絵も多い。野村監督の似顔絵、エレキングの解剖図解、お魚くわえたトルネコ、社内ネットワーク配線図、人体切断マジックのトリック図解、ロマノフ王朝の秘宝の隠し場所の地図、金剛界曼陀羅、悪魔召還の魔法陣、実物大バクテリオファージ。よく描いたものだ。いったい何時間かかったことだろうか、感心する。

 このような落書きをながめていると、私にもむらむらと創作意欲がわいてくる。ここは一つ、何か面白い落書きを考えなければなるまい。それも、なるべくオリジナリティーのあるやつを。上に記したようなものはダメだ。すでに存在している。まだ誰も思いついていない、斬新な落書きでなければ。そんなものがはたして書けるのか……と考えていたら、ひらめいた。これだ。これは斬新だぞ。しかも面白いぞ。三月にシンガポールで開催された第十五回国際落書きコンクール・トイレの壁部門で大賞に輝いたフランスはシモン・ビルフォールの『カルナックの泡沫』ほどではないにしろ、十分に入賞を狙える落書きだ。さっそく、これを書きに行かねば。
 ……と思ったが、いざとなるとなかなか実行できない。駅のトイレ、デパートのトイレ、会社のトイレ、そういった公共の場所に落書きするとなるとついためらってしまうのだ。書いている最中に見つかったらどうしよう。こらこら君、いったい何をしているんだね。い、いやこれは、ええと、次回の国際落書きコンクールに出展するもので。何をわけのわからないことを言っているんだ、とにかくこっちへ来なさい。ああっすいません、もうしません、許してください。そんなことになったらどうしよう。いや、実際には捕まらないまでも、捕まるかもしれないとびくびくしながら書いていたら良い作品になるわけがない。ううむ困った、どうしよう。誰にも気兼ねなく落書きの出来る場所……そうだ、自分の家のトイレに書いておこう。

 というわけで、落書きが完成した。自宅のトイレの壁一面を使った大作である。自分で言うのもなんだが、なかなかの傑作だ。で、この傑作を埋もれさせておくのは惜しいので、一般公開することにした。希望者は遠慮なく申し出ていただきたい。閲覧料は大人五百円子供二百五十円(六才未満と六十五才以上は無料)と、お安くなっている。
 そうそう、この落書きにもきちんとタイトルを付けておかなければ。ええと、そうだな、『ネブカドネザルの呪縛』にしよう。




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