裏ぽた・98年4月


4月30日(木)

 近所のクリーニング屋に行ったら定休日だった。ううむそうか、今日は木曜日か。連休二日目にして早くも曜日の感覚があやしくなってきた。

 そうそう、昨日の話だ。昨日は、みやちょ&のりりんと明石で飲んでいたのだった。しかしまあ、単なる普通の飲み会で、特筆すべき話もないなあ。
 五分間だけ登場したフランケンさんは意外と若かった。というか、若作りしているだけか。きゃー。
 うむ、日記界もそうだけど、ミステリ界にもいろいろともめ事があるのだよ←オマエが火付け役だろうが←ううっすまぬ、もうやりません←と断言できないところが……。


今日買った本:
『鴇色の仮面』新宿少年探偵団5(太田忠司、講談社ノベルス)



4月28日(火)

 会社に行くと、さっそくメールとデスクの上に置かれた書類をひととおりチェックする。一日出張に行っていただけでけっこうたまっている。
 どうやらみんな、ゴールデンウイークをきれいな体でむかえようと(←?)できるだけ他人に回してしまおう、という魂胆らしい。ううむ、出遅れた。
 今日は午後から半日会議。これだけの仕事を午前中に片付けるのは無理、とあっさりあきらめ、緊急でないものは連休明けに回すことにする。まあ、私の場合、休日でも仕事が気になってゆっくり遊べない、ということはまったくないので安心だ。なにしろ、仕事中でも仕事を忘れるくらいだからなあ。
 というわけで、会議終了後は出張旅費と勤怠関係の処理だけさっとすませ、早々に帰宅。うむ、ビールが旨い。

 推理作家・森博嗣についてだが(←まだやるのか←すまぬ)「森博嗣論」を書くとすれば、注目すべき視点が二つある。
 一つは、企業人の不在。森博嗣の作品には、企業人(実業家や会社員)がほとんど登場しない。登場するのは、ほとんどが研究者と芸術家(と警察官)で、要するに「経済」の要素が希薄なのだ。このあたりは、一度も企業に勤めることがなく、現在も某大学の助教授である森博嗣の経歴が大きく関係しているだろう。はたして、「書かない」のか「書けない」のか……。
 もう一つは、ギャグの不在。以前も書いたが、ギャグを書けるかどうかは自分自身をバカにすることができるかどうかに依存する。自分の失敗を読者の前に晒し、「私はこんなにバカなことをしてしまいました。どうぞ笑ってやってください」と言える者でなければ、面白いギャグは書けないだろう。いわば、自分自身を客観視できるかどうか、なのだが、自信家で「批判的な感想は不要」と言い切る森博嗣には困難なことだろう。森博嗣の書く「ギャグ」が今一つ面白くない理由はここにある。彼の書くギャグは「自分の失敗を笑ってもらう」ものではなく「他人の失敗を笑う」ものだからだ。
 ……と書いてはみたものの、作家としての特質をあらわすキーワードが両方とも「○○の不在」で語られる、というのはどういうものだろうか? 「存在」ではなく「不在」が特質であるというのは、あまり自慢できることではないだろう。
 というわけで、誰かが森博嗣論を書くときの参考にでもなれば。私は、そんなものを書く情熱はすでに失せました。



4月27日(月)

 岡山出張のため朝六時起き。いつもより二時間くらい早いぞ。うーむ、眠い。

 岡山駅まで新幹線。そこからさらにバスで三十分、ようやく工場へ到着。一日中会議だ。
 居眠りしそうになるのを鉄の意志で耐えながら(耐えきれなかったという説もある)なんとか終了。
 この会議自体はそれほどもめる要素もなかったのだが、会議終了後に「非公式の打ち合わせ」が始まるのは毎度のことだ。解散したあとの会議室、あっちに三人こっちに五人集まって、今の会議の内容や今後の業務についてぼそぼそと会談している。言いたいことは会議中に言えって。
 放っておくと新幹線の終電まで続きかねない。とてもつきあいきれないので、適当なところで「帰る!」と宣言して見捨ててきた。こういう「悪習」は改善してほしい、と言い続けているんだけどねえ……。

 帰りの新幹線で少しうとうとしたけど、まだ眠い。今日は早めに寝よう。



4月26日(日)

 どうやら日曜更新が定着してきたようである。
 最近はどうも、ダジャレの割合が少なくなってきた。オチもダジャレでない場合が多い。これは、ダジャレのネタが尽きてきた、というのもあるだろうが、もっと色々なギャグのパターンをやってみたくなった、というのが大きい。
 ちなみに今日のオチは、「質問の意図をむりやり曲解してボケる」に加え、「違う質問に対して同じ答えを返す」というパターンである。……というオチの解説は恥ずかしいからやめた方がいいぞ。

 昨日買った『トンデモ世紀末の大暴露』(と学会編、イーハトーヴ出版)を読んでいたのだが、清涼院流水の作品群は「トンデモ本」に分類されているようだ。うーむ、まあ、いいんだけどさ。でも、清涼院の場合は「わかってやっている」と思うぞ。

 明日は岡山。六時起きだ。


今日買った本:
『ジャクソンヴィルの闇』(ブリジット・オベール、ハヤカワ文庫)



4月25日(土)

 久しぶりに、生理のにおいを認識した。

 昔はけっこう、女性が生理かどうかはにおいで判断できた。しかし、煙草を吸い始めてからは嗅覚が鈍ったのか、ほとんどわからなくなってしまったのだ。
 それが認識できた、というのは、やはり女性の側の個人差だろうな。

 ちなみにこの「におい」、いいにおいだとか嫌なにおいだとかいうことはなく、中性的な「におい」である。


今日買った本:
『トンデモ世紀末の大暴露』(と学会編、イーハトーヴ出版)
『ヌルゲリラ』(唐沢なをき、アスペクト)
『地獄で笑ふ男』(唐沢俊一編、二見書房)
『気分は形而上』19巻(須賀原洋行、講談社)



4月24日(金)

 すでに泥酔状態、かもしれぬ。今日は箇条書きで簡単に。

 浮動小数点演算モジュールに比較演算のモジュールがない。自作せねばならぬのか。

 そろそろ新車を検討中。ヴィータがいいかゴルフがいいか。

「屠殺」ってのは放送禁止用語か? そういえば、『魁!男塾』の蝙翔鬼が使う技「屠殺拳」が、アニメ化された際には「葬殺拳」になっていた。

 ギャグを書けるかどうかは、自分自身をバカにすることができるかどうか、に依存する。

 利己的遺伝子論は擬人法である。

 あんた、ひょっとして講談社にうまいこと乗せられとるだけちゃうか?


今日買った本:
『3×3EYES妖魔大図鑑』(クリエイトA編、講談社)



4月23日(木)

 そういえば、今日は健康診断の日だった、と会社に行ってから気付く。ううっ、こんなことなら、おニューのパンティーはいていくべきだったわっ。しくしく。
 しかし、硬貨拭こうか(←十円玉をタバスコで拭くとピカピカになるんだよね)じゃなくて、幸か不幸か、パンティーを披露する状況にはならなかった。あーあ(←残念なのか?)
 で、検査のため血を抜かれた。前回の健康診断の時は「週に二日は休肝日を設けなさい」と言われているからなあ。まあ、このアドバイスは何とか守れているのだが、さて結果はどうでるか。

 5月6日、有給休暇を取ろうと思っていたのに、マイコンのセミナーが舞い込んだ。
 なんで休み明けの初日にセミナーなんかやるんだ! くそお、NECめ!(←これを読んでコケてる人が最低4人はいるはず←なぜかNECに読者が多いからなあ)
 ……って、まあ、NECのせいではないのだが。
 しかしこのセミナー、京橋で開催されるのだが、休み明けってのはボケてるからうっかり自分の会社の方に行ってしまいそうだなあ。注意せねば。



4月22日(水)

 ふうっ、疲れた。

 昨日、隣の課から私の課に転属してきた人がいる。正確に言えば転属ではなく、原籍は元の課にあるのだが。新人ではなく、私より2〜3才上の人である。
 で、昨日今日の二日間、この人に業務の内容やらテーマの状況やら何やらをずっと説明していた。二日間で6時間くらい、ずっと喋りっぱなしである。そもそも、この転属自体が急な話で、私も先週の金曜日に聞いたくらいだ。だから説明の準備もできていなかった上に、この人のツッコミがするどい。少しでもあいまいな点があるとすぐに質問が出てくる。だから、私としても全身全霊をつくして(←あながち大げさでもなく)説明と回答をしなければならなかったのだ。疲れた。

 さいかさんに某所で「最近、読む本に『当たり』がないのでは?」とツッコまれたのだが、昨日買った『思考のための文章読本』、電車の中でぱらぱらと読んでいると、どうやらこれは当たりっぽい。「序」の部分に、こんなことが書いてあった。


 ところで、ぼくらが文章を読んでいるときには、それが言葉で書かれていることなど意識しないで読んでいる。そのとき言葉は空気のように透明な存在である。ところが、文章を言葉や文字の行列として意識したとたんに、読みは中断され、言葉がぼくらの目の前に不透明な壁としてあらわれる。これは当たり前のようでいて、やはり不思議な現象だ。


「思考」に注目すると「言葉」が消滅し、「言葉」に注目すると「思考」があいまいになる。さしづめ、「文章の不確定性原理」とでも言えるだろう。考えてみればそのとおりだ。文章を鑑賞するときには常に、内容レベルの鑑賞と言葉レベルの鑑賞、二つが存在するが、これを同時におこなうのは難しい。
 「思考と言葉」はすなわち「内容と形式」のことだから、私の興味とも一致する。この本は「こうした不思議な現象の中に身をおいて、考えて」みた、という内容らしい。読み進むのが楽しみである。



4月21日(火)

 ううっ、眠い。昨夜は結局、二時までチャットをしてしまった。

 そもそも私は文章を書くのが遅いのだ。チャットと言えども文章をついつい推敲してしまうのだ。だから、チャットを始めると他のことが一切できなくなってしまう。日記や掲示板を読みに行けないのだ。
 そんな理由で、なるべくチャットにはまらないようにしていたのだが、昨夜は思わず熱くなってしまった。ううむ。
 で、そのチャットでの話の内容と関係あるんだかないんだかよくわからないが、今日は「意味なしジョーク」について考えてみよう。(ここで苦笑している人が何人かいるはず……)

「意味なしジョーク」という言葉は、最近たまに私の周囲で話題になる。しかし、どういうジョークを意味なしジョークと呼ぶのか、その定義ははっきりしていないのだ。はっきりしていないわりには、この言葉は一人歩きしてよく使われている。そこで、この言葉の発明者(?)の意向はまったく無視して、私なりに「意味なしジョーク」を定義してみよう。

 で、まずは、これに対応する概念としての「意味ありジョーク」、すなわち、意味のあるジョークから。これをサンプルとして取り上げる。

「ねえねえ、リンゴとミカンとどっちが好き?」
「オレはスターだからリンゴの方だなあ。リンゴ・スター」
(つまらないぞ! というツッコミは却下。サンプルだからこれでいいのだ)

 まあ、簡単なので解説の必要もないのだが、ビートルズのメンバーであったリンゴ・スターと人気者という意味のスターに、果物のリンゴをかけているわけである。この部分に「意味」が存在する。
 では、このジョークはどのような過程で産み出されたのか。まず、相手の「ねえねえ、リンゴとミカンとどっちが好き?」という質問に対し、ボケてやろうと考える。ジョークの分野としてダジャレを選ぶ。リンゴとミカンから、リンゴの方を選ぶ。「リンゴ」から連想されるものを列挙していく。アメリンゴ、ニュートンとリンゴ、リンゴ・スター、りんご追分、林檎殺人事件、クリンゴン……。そして、この中からリンゴ・スターを選ぶ。なぜこれを選んだかというと、実際にはスターでも何でもないのに「オレはスターだから」という理由を無理矢理くっつけることにより、ボケが二重になるからだ。言うならば、「意味ありジョーク」は連想ゲームである。(このあたりは、私の普段の思考過程そのものである)

 これに対し、「意味なしジョーク」とはどういうものか。

「ねえねえ、リンゴとミカンとどっちが好き?」
「消火器爆弾」

「意味なしジョーク」は、非連想ゲームである。つまり、答として、いかにしてリンゴともミカンとも関係のないものを持ってくるか、の勝負だ。関係があれば、それは「意味ありジョーク」になってしまう。
 さて、ここで一つ問題が生じる。はたしてこれで笑えるのか? これは単に「意味がない」だけであって、ジョークではないのでは?
 そのとおりである。これがジョークになるかどうかは、状況に依存する。たとえば、この二人の会話で、以前に

「火炎瓶と消火器爆弾とどっちが威力が大きいかなあ?」
「消火器爆弾」

という会話があったとすると、これはジョークとして成立する。すなわち、「まったく違う質問に対して同じ答を返す」というボケになっているのだ。
 すると、この場合、このジョークには意味がある、ということになってしまう。「消火器爆弾」と答える理由が存在するからだ。すなわち、「意味なしジョーク」がジョークとして成立するためには、意味があること、が条件となる。……矛盾である。

 結論。
「意味なしジョーク」なるものは存在しない。意味がないものはジョークではない。ジョークであれば意味があるはずだ。
 ……といったところでいかがでしょうか?←誰に聞いてる?


今日買った本:
『思考のための文章読本』(長沼行太郎、ちくま新書)



4月20日(月)

 宿酔い気味の月曜日。

 誤植というのは「印刷物が元原稿どおりになっていない」という意味だから、ウェブ上の誤字脱字を誤植と呼ぶのは間違いだよなあ。そもそも、元原稿そのものが見えているわけだし。

 面白かった誤変換。
 祖父としよう所。←ソフト仕様書。
 仕事で、真面目な文書を書いているときにいきなりこれが出たから、つい吹き出してしまった。

 今日は、自分が五年前に作ったソフトの動きを「解読」する羽目に。
 後輩に質問されたのだが、すでに作成当時のことなど忘却の彼方である。適当に答えていたら、「うえださん、それは違いますよ」とツッコまれる。しくしく。
 うーむ、もう少しきちんとコメントを入れておくべきだった。
 ……あ、今はもちろん、たとえ納期に追われていようがきちんとコメントを入れている。(それは、このせいで何度か痛い目にあっているからである)

 今日は休肝日。



4月19日(日)

 たまった未読本を紐解きながら、だらだらと過ごす日曜日。たまにはこんな休日もいいか。(……って、いつものような気もするが)

 私の場合、本を買うペースと本を読むペースを比べてみれば、わずかに本を買うペースの方が速いようだ。そのせいで机の上の未読本の山が徐々にではあるが高くなっていく。現在、この山の高さは30センチ弱。今見てみると、この山の一番下にあるのは『創竜伝』11巻(田中芳樹、講談社ノベルス)である。
 この本は去年の12月に買ったものだから四ヶ月も眠り続けていることになる。田中芳樹といえば、数年前までは新書であろうがハードカバーであろうが即座に購入して最優先で読んだものだったが、最近はあまり読もうという気にならない。中国ものばかりに手を出して継続中のシリーズものがほとんど刊行されない、というのも理由の一つだろう。

 かつて熱狂的に読んでいたが、最近はまったく読みもしない、という作家が何人か存在する。平井和正・椎名誠・吉村達也などだ。田中芳樹もこの作家たちの仲間入りをしてしまうのだろうか。思い切りよく既読本の山に突っ込んでしまうのは簡単なのだが……。


今日買った本:
『現代夜討曽我』(高木彬光、光文社文庫)
『倫敦時計の謎』(太田忠司、祥伝社ノンポシェット)



4月18日(土)

 少女漫画といえば。
 もっとも熱心に読んでいたのは、高校から大学にかけての時期である。最盛期には、『LaLa』『花とゆめ』『別冊少女コミック』『プリンセス』を買っていた。当時は、本当に手当たり次第に読みまくっていたような気がする。

 好きだったのは、三原順・柴田昌弘・川原泉・ひかわきょうこ・山田ミネコ・青池保子・和田慎二・山岸凉子・萩尾望都・くらもちふさこ……ううむ、いくらでも出てくるなあ。しかし、こう並べてみるとけっこうSF・ファンタジー系が多い。その手の作品を描いていないのは、三原順とくらもちふさこくらいか。
 今はどうか、というと、さすがに雑誌は買っていない。気に入った作家の単行本を買うだけである。単行本だと抵抗なく買えるのに、雑誌を買うのはものすごく勇気がいるのだ。なぜだろう。
 このあたりの心理を分析して……みるほどのものでもないか。

 ま、今日はこのへんで。


今日の都々逸(←また出た)

 無駄と知りつつ でも言ってみる 結果やっぱり 無駄だった

 ↑これについてはあまり追求しないように(苦笑)


今日買った本:
『図像学入門』(荒俣宏、集英社文庫)
『まんがの逆襲』(唐沢俊一、光文社文庫)
『育毛通』(唐沢俊一、ハヤカワ文庫)
『あっ!生命線が切れている』(好美のぼる著・唐沢俊一編、二見書房)
『ぶらいけん』(唐沢なをき、白泉社)
『ホスピタル』(唐沢なをき、白泉社)
『ホスピタル2』(唐沢なをき、白泉社)
……ううっ、またしても唐沢ばっかり……。



4月17日(金)

 出社してみると、デスクの上に「長期休暇中の緊急連絡先をご記入ください」という回覧が置いてあった。もうすぐゴールデンウイークである。

 この回覧は、夏期休暇・年末年始・ゴールデンウイークの前になると恒例のようにまわってくるもので、各自が緊急連絡先の電話番号……自宅とか帰省先とか……を記入することになっている。いつものように自宅と携帯の電話番号を記入して次の人にまわした。
 しかしなあ、いまだかつて休暇中に「緊急連絡」なるものが入ったことなどないぞ。休暇中に呼び出されるほど緊急の仕事といえば「客先で重大クレーム発生!」くらいだが、まあ、たいてい客先も休暇中だからな。

 重大クレームで思い出したが、数年前、横浜の客先へクレーム対応に行ったことがある。前日の夜に出発し、横浜で一泊して朝一番に客先の工場へ入った。しかし、調べてみてもなかなか原因がつかめない。結局、原因を突き止めてなんとか応急処置を終えたのが八時過ぎだったか。
 昼食はその工場の食堂で食べたのだが、夕食はわざわざ出前を取ってもらった。おまけに、解決したあとは「遠いところを来ていただいて」ということで一杯おごってもらったのだ。責任はこちらにあるし、その工場のラインが止まって困っていたというのに、これだけ親切にされると恐縮してしまう。しくしくしく。……って、涙は流さなかったけど。しかし、あの時の酒は旨かった。

 それはさておき、ゴールデンウイークの話だ。
 休みは4月29日から5月5日まで。いつもはこの前に有給休暇を1〜2日くっつけて休みを増やしているのだが、今年はそういうわけにもいかない。27日は岡山出張で会議の予定が入っているし、28日も「新体制発足のキックオフ」ということで、やっぱり会議だ。最終日に会議なんかセッティングするんじゃない!
 うーむ、仕方ないから、5月6日に有給休暇を取るとしよう。←結局休むのか。



4月16日(木)

 帰宅してから、録画してあった「影武者・徳川家康」を見たりしていたため、書き始めるのがずいぶん遅くなってしまった。
 テレビの時代劇はあまり見ないのだが、これは原作が非常に面白い「歴史ミステリ」なので見る気になったのだ。冒頭の関ヶ原の部分はやや説明不足と思ったのだが、後半になって面白くなってきた。名古屋章がいい味出している。しかし、片岡鶴太郎はミスキャストのような気がするなあ。

 というわけで、昨日の続き。

 その作家は、自分で「言葉にこだわる」とことあるごとに表明している。確かに、作品を読む限りはそのように見えるのだ。
 一つ例を挙げれば、英語の「er」や「or」を語尾に持つ単語をカタカナでどう表記するか、という問題がある。この作家は「長音は表記しない」という方針で、自分のページでもそのように表明している。この方針に従って、コンピュータ、コーヒーメーカ、クーラなどと表記しているのだ。「コンピュータ」はともかく、「クーラ」には違和感を感じるのだが、私の言語感覚に合うかどうかは別として、そのような方針を持って「言葉にこだわる」姿勢は評価できる。評価できる、と思っていた。

 ところが。
 自分のページで公開している日記その他の文章を読むと、異様に誤字脱字が多いことに気付く。これは一体、なぜなのだろう。(ことわっておくが、誤字脱字が多いこと自体を問題にしているのではない。作家のくせに、という問題でもない。自分で「言葉にこだわる」と言っておきながら誤字脱字が多い点を問題にしているのだ)
 この誤字脱字に対しては、そのページの掲示板で読者からしばしば指摘を受けて修正しているのだが、先日目にしたこの作家の言い訳はこうである。曰く、時間節約のため読み返していない。全国に校正者がいると思っている。
 これには驚いた。読み返しもせずに公開して、はたして「言葉にこだわる」と言えるのだろうか。
 まあ、読み返さずとも、誤字脱字のない文章が書けるのならいいだろう。しかし、読者からの指摘も多く、自分の文章に誤字脱字が多いことはわかっているはずだ。なのに、なぜ読み返さないのか。

 もうひとつ、最近の例を挙げる。
 この作家は、作品内ではクロワッサンのことを「クロアッサン」と表記する。これは「言葉にこだわる」ひとつの例だろう。ところが、自分のページで一度「クロワッサン」と書いてしまい、これも読者に指摘されていた。これに対する言い訳はこうだ。曰く、表記は「クロアッサン」が好きだが、別のパソコンで書いたので「クロアッサン」が辞書になかった。
 ……どうも、私の理解を超えているようだ。「くろあっさん」をカタカナに変換するのは、辞書が必要なほど難しい行為だろうか。辞書がなければ簡単に表記法を変えるという行為は、「言葉にこだわる」と言えるのだろうか。辞書がなければ、「コンピューター」「クーラー」と表記しても平気なのだろうか。

 ここ数日、この問題で呻吟している。まあ、私が勝手に「裏切られた」と思っているだけなので、この作家にとってはいい迷惑だろうが。
 「言葉にこだわる」とはどういうことか、それを考え直す機会を与えてもらったのかもしれない。


 この作家、名前は森博嗣という。



4月15日(水)

 「補陀落通信」「裏ぽた」その他ウェブ上で公開する文章をどのように書いているか、というと……。

 まず、文章のみをテキストエディタでベタ書きする。一気に書き上げる、ということはまずない。たいていの場合、数行書いては悩み、前の文章を読み返し、また数行書き、行きつ戻りつして書いていく。
 書く内容はすでに頭の中にある。悩むのは、書く形式である。書いては読み返しをくり返して、主にこんな点をチェックしている。

 ・誤字脱字がないか。固有名詞、特に人名はちょっとでも怪しいと思ったら必ず調べる。
 ・文法のミスがないか。
 ・漢字とひらがなのバランスは適切か。
 ・文章が読みやすくかつリズムあるものになっているか。

 書き上げたあと、htmlファイルのフォーマットにペーストし、タグなどをつけ加える。これをブラウザで表示させて、もう一度読み返す。たいていは、ここでさらにミスや直したいところが見つかるので、それを修正してようやくアップロード、ということになる。これだけ手間をかけているから、書くのに時間がかかるのだ。

 もっとも、文章を公開するようになった当初からこれだけの手間をかけていたわけではない。こだわるようになったのは、ここ一年くらいのことだろう。
 最初の頃は、あまり考えもせずに文章を書いていたようだ。ところが、ウェブ上で他人の文章……名文と呼ばれるものからどうしようもない悪文まで……を数多く読み、自分でも量を書き、他人から賞賛や批判をもらううちに、文章の書き方がわかってきたようだ。いや、これは自惚れ過ぎか。文章の書き方がはるか彼方にかいま見えた、というところだろう。

 誤字脱字があっても、文法のミスがあっても、言いたいことが通じればそれでいいじゃないか。そこまで枝葉末節にこだわることはない。もちろん、その言い分も正しい。伝えたい内容があり、文章はそれを表現する手段に過ぎない、と考える人もいるし、そのような人の書く文章も楽しく読ませてもらっている。私は、内容と同等あるいはそれ以上に文章自体にこだわっているが、そのようなこだわりを強制する気は毛頭ない。
 たとえば。私も含む一般人にとっては、鉄道は単なる移動手段に過ぎない。目的地まで速く安く着ければそれでいいのだ。しかし、いわゆる鉄道マニアと呼ばれている人は枝葉末節にこだわる。この列車は○○年製の○○という型式で、今は○○線でしか走っていない。この列車とあの列車がここですれ違うために、このような巧妙なダイヤが組まれている。……まあ、鉄道マニアでない私にはこの程度の例しか出せないのであるが、多くの人には、オーディオだったりスポーツだったり車だったり、こだわりを持つ分野があるだろう。そう、私は「文章マニア」あるいは「言語マニア」なのである。
 ウェブ上で同志を見つけるのは簡単ではないが、幸いにも、私は何人かの同志の知己を得た(もっとも、正面切って「あなたは文章マニアですか?」などと確認したことはないが)

 そして、私は考えていた。
 文章マニア自体は多くはないかもしれない。しかし、少なくとも、文章を書くことを職業としている人なら。それも、新聞記者や編集者よりも作家や評論家の方が、より「文章マニア度」が高いはずだ。
 だが、この考えは、一人の作家によって裏切られることになる。その作家とは……。

 ちょっと長く書きすぎたようだ。この続きは明日にでも(←日記にヒキを入れるなっ!←日記だったのか←盲点)



4月14日(火)

 朝、会社で「おはようございます」とあいさつをする。
 この「おはようございます」は、何時まで使えるのだろうか? 一応、午前中なら「おはようございます」でいいような気もするが、私の場合、昼を過ぎていても、その日はじめて会う人には「おはようございます」とあいさつをすることが多い。まあ、これが使えるのはせいぜい三時くらいまでだが。
 なぜかというと、「こんにちは」「こんばんは」とは言いにくいからだ。同僚や後輩ならいいのだが、上の人には使いにくい。なんとなく、丁寧な言い方でないような気がする。

「おはようございます」は、「おはよう」の丁寧な言い方だ。というより「おはよう」が「おはようございます」の省略形なのだが、この「おはようございます」に相当する言い方が「こんにちは」「こんばんは」に対してはすぐには出てこない。
 あえて言うなら「こんにちは御機嫌いかがでございますか」「お晩でございます」などになるのだろうが、これはちょっと恥ずかしいぞ。

 というわけで、可能な限り「おはようございます」を使うようにしているのだが、芸能界ではいつ会っても「おはようございます」とあいさつするというのも、案外同じような理由からではないだろうか?



4月13日(月)

 土曜日に買ってきた文庫版の『桃尻語訳・枕草子』だが、本棚の奥を探してみると、実はハードカバーの時にも買っていたのだった。しくしくしく。
 ハードカバー版が発行されたのは1987年だから、もう10年以上前だ。そういえば、かすかに読んだ記憶もある。まあいいか。文庫本の方が持ち運びしやすいし。(負け惜しみだな、これは)

 せっかくだから、ちょっとこの本を紹介しておこう。
 これは、ご存じ『枕草子』の過激な現代語訳である。たとえば、有名な冒頭の部分はこう訳されている。


 春って曙よ!
 だんだん白くなってく山の上の空が少し明るくなって、紫っぽい雲が細くたなびいてんの!

 夏は夜よね。
 月の頃はモチロン!
 闇夜もねえ……。
 蛍がいっぱい飛びかってるの。
 あと、ホントに一つ二つなんかが、ぼんやりボーッと光ってくのも素敵。雨なんか降るのも素敵ね。


 これでいいのか、って? いいの!
『枕草子』は、当時の口語体で書かれているわけだから、現代語訳も口語になるのは当然よね。だいたい、普通の現代語訳って、なんて書いてあるか知ってる? 「春は曙(がよい)」なんて、こっそり「がよい」なんて言葉をつけ加えてるのよ。まったく、冗談じゃないわ。清少納言は「春は曙」としか書いてないわよ。よいとも悪いとも書いてないじゃない。だから、これを直訳すれば「春って曙よ!」になるわけ。わかった?
 そういうわけで、別に古典だからと言って格調高く訳さねばならぬ、なんてことはないのよ。『枕草子』は口語で書かれているわけだから、こういうくだけた感じに訳すのが正解なの!


今日の都々逸(まったく色っぽくないが)

 かわいそうだよ ズボンのおなら 右と左に 泣き別れ

 この都々逸は、オール阪神・巨人がエンタツ・アチャコのものまねをするときによく使っているネタだけど、オリジナルはエンタツ・アチャコなのかしら? それとも、もっと昔に原典があるの? 知っている人は教えてくださいね。この文体ってけっこう気持ちよくて、戻らなくなったら困るわ。おほほ。



4月12日(日)

 なんとなくカレーピラフが食べたくなる。ダイエーで材料を買い込んできた。
 具は、豚肉・玉ねぎ・にんじん・グリーンピース・たまご。これらを適当に刻んで(いや、たまごは刻まないが)フライパンで炒める。味付けは塩・こしょう・カレー粉・チャツネ・ガルキマサラ。たまごは別途スクランブルエッグ風にしておく。
 このたまごとライスをフライパンにぶち込み、カレー粉などを振りかけつつさらに適当に炒める。仕上げに醤油で色と香りをつけてできあがり。
 適当に作ったわりにはまあまあ食べられる。ただ、ちょっと油が多かったか。これは妖怪油増やしの仕業だ。それはもういいって。



4月11日(土)

きみの前髪 指先絡め 見送るホームの 後ろ髪


今日買った本:
『ガルムの報酬』グイン・サーガ60巻(栗本薫、ハヤカワ文庫)
『桃尻語訳・枕草子』上(橋本治、河出文庫)
『桃尻語訳・枕草子』中(橋本治、河出文庫)
『桃尻語訳・枕草子』下(橋本治、河出文庫)



4月10日(金)

 朝、いつもどおり九時半に出社してパソコンの電源を入れメーラーを立上げると、テーマリーダーから一通のメールが来ていた。テーマリーダーとは、今とりかかっている商品開発のリーダーで、すなわち、私の直上にいる人である。メーリングリストを使っているので、開発メンバー全員に届くようになっている。
 メールの内容は、と言えば。
 要するに、開発中の商品の仕様に対して各方面から「改善」要求が来ており、この要求を今後検討していく、というものだった。この要求内容は主にハードウエアに関するもので、私の担当であるソフトウエアには直接の関係はない。しかし、開発も中盤にさしかかった今となっては対応困難な要求である、程度のことはわかるので、うーむ、困ったもんだなあ、などと思っていたのだが……。
 しばらくして、私の後輩のハードウエア担当者からのメールが来た。先ほどのメールに対するリプライである。
「それ、本気で言ってるんですか? 対応不可能な要求があるのは、○○さんだってわかってるでしょう?」
どうやら、真剣に怒っているらしい。

 昼前、喫煙室でその後輩と出会った。
「さっきはメールで、えらい怒っとったな」
と話題をふると、力無く微笑んで答えた。
「いや、怒ってるというか……。しかし、マズいっすねえ。私、始末書ものですわ」
 わはは。大丈夫大丈夫。その程度で始末書を書かねばならないなら、私なんかとっくの昔にクビになってるって。大体、君の言ってることは正論なんだから、恐れることはないぞ。
 この後輩はけっこう真面目に仕事に取り組むタイプである。だからこそ、理不尽な要求に対しては本気で怒ってしまうのだろう。

 そういえば、私もしばらく上司にケンカを売ってないなあ。まあ、最近はケンカのネタもあまりないのだが。よーし、来週あたり、ちょいとネタを探してでも……(←やめれ!)


今日の都々逸(←まだやるのか)

枕出せとは つれない言葉 そばにある膝 知りながら




4月9日(木)

 レイアウト変更後の私のデスクは、どうも環境が悪い。

 まず、すぐ隣にミーティングテーブルがある。ここで一日のうち四時間くらいは誰かがミーティングをしているのだ。まあ、普通にミーティングをしている分にはそれほどでもないのだが、やたらと声がデカいやつがいるときなど最悪である。仕事などしていられない。普段ならとっとと実験室か資料室に避難するのだが、今やっている構造設計にはパソコンが必要なのである。仕方なくデスクで仕事をすることになるが、ストレスがたまる。

 そして、真上にエアコンの吹き出し口がある。今日などは雨が降ったせいかじめじめしていて、後輩の一人が除湿のスイッチを入れたのだが冷たい風がもろに私に当たる。抗議しても「それくらいガマンしてくださいよ、うえださん」である。こいつ、先輩を先輩と思ってないな。しくしく。

 さらに、右斜め後ろには課長のデスクがある。ちょうど私のパソコンのディスプレイが見える位置だ。掲示板やチャット巡りをしているとバレバレである。なんとかカムフラージュしなければ。まず、デスクトップパターンをなるべく派手なものにする。仕事で使っているソフトもなるべく多数の色を使うように心がける。一方、ブラウザの方は画像読み込みをオフにして背景色もグレーに。そして、椅子の位置を調節してディスプレイが体で隠れるようにするのだ。まったく、なんでこんなに苦労しなければならないのか。仕事にならないぞ!←してないだろ←うむ、それは盲点だった。


今日の都々逸(←新コーナー?)

一人差したる 雨傘なれば 片袖濡れよう はずもない




4月8日(水)

 午後から雨。桜ももう終わりか。
 ちらちらとチャットや掲示板をのぞきながら、一日中ソフトウエアの構造設計。VISIOもだいぶ使いこなせるようになってきた。

 水すましと油すましは、似ているようで全然違う。まあ、そんなことはどうでもいいが、懲りずに都々逸の話。

 九尺二間に 過ぎたるものは 紅のついたる 火吹き竹

 ……という都々逸を味わうには、少々予備知識が必要か。
 江戸というのはもともとが人工的な都市なので、男より女が少ない。参勤交代などでやってくる侍は単身だし、故郷で食い詰めた男、商家に奉公に出る男、一旗あげようと江戸へやって来る男などが多かった。そういうわけで、イゼルローン要塞なみに(←?)男が多かったのだ。
 まあ、幕末になるにしたがって女が増えていくものの、弘化元年(1844)の調査でさえ、町人人口約56万人のうちわけは男52%・女48%と4%も差があったのだ。
 そんな状態だから、普通の職人などにとっては妻がいるだけでぜいたくだ、と言われていたらしい。

 で、この都々逸の解釈。解釈と言うほどのものでもないが。
 九尺二間、というのは、最低レベルの裏長屋のこと。間口が九尺で奥行きが二間である。そこに、紅のついた火吹き竹がある、すなわち、炊事をしてくれる妻がいるというのだから、まさに過ぎたるものである。
 こんな状態なら、妻に頭が上がらない男が多かったのではないだろうか。
 ところで、これは河合継之助の作だと言われているが、ほんまかいな。

 もうひとつ。この都々逸もけっこう好き。

 玉の輿より 味噌漉し持って つとめ嬉しい 共稼ぎ


今日買った本:
『文学強盗の最後の仕事』(井上ひさし、中公文庫)



4月7日(火)

 午後からずっと会議。
 というよりレビューか。ソフトウエア仕様書に対して、みんなでよってたかってツッコミを入れる(←?)のである。これをやっておかないと、あとになって「そんな仕様は聞いてないぞ〜」とか「ぐええ、これが抜けてた」とかいう事態になるのだ。
 会議というのは大体眠くなるものだが、今日は大丈夫だった。まあ、これは必要性を認識しているからだろうな。ただし、煙草が吸えないのはつらい。

 昨日新創刊の月刊誌『コミックトムプラス』(潮出版社)を購入。昨年末、売れ行き不振のためか廃刊した『コミックトム』がリニューアルしたものだ。しかし、安易な誌名ではある。もう一度廃刊して新創刊したら、『コミックトム++』になるのだろうか?
 執筆陣は、横山光輝・松本零士・山岸凉子・星野之宣・神坂智子・みなもと太郎、といったところ。この中で私のお気に入りは、もちろんみなもと太郎である。
 みなもと太郎は、前身の『コミックトム』でも、『風雲児たち』という歴史ギャグ漫画を連載していた。関ヶ原の戦いをプロローグとし、幕末の英雄群像を描く大河漫画なのだが、堅苦しい内容ではない。みなもと太郎の、人間に対する暖かい視点と卓越したギャグセンスのおかげで、まさに「涙と笑いの超大作!」になっているのだ。これが連載15年・単行本29巻を費やしてようやく黒船来航前夜までやって来たというのに(まだそんなところか、って展開が遅いのが唯一の欠点だ)廃刊だからなあ。しくしく。
 しかし、みなもと太郎は帰ってきた。タイトルを『雲竜奔馬』とあらため、坂本竜馬を主人公に据えて再出発。もちろん、西郷隆盛・勝海舟・吉田松陰・シーボルトいねといった前作からのキャラも登場予定。うーむ、相変わらず武市半平太くんはいいアゴ……じゃなくて、いい味出してるなあ(←?) そして、ようやく、やっと、ついに、黒船がやってきたのだ。ばんざーい!(←ちょっとハイになっております、はい)
 この漫画だけは、たとえあと何年かかろうとも、ずっと追いかけていきたい。「五稜郭が落ちるまでは描く」ということだが、はたして完結までにあと何年かかるだろう?



4月6日(月)

 ううむ、昨日のオフミ報告日記はちょいと手抜きすぎたか。疲れていたのだ。で、ちょいと追記。

 さいかさんのカードマジックは、ホントに上手かった。まあ、本職なんだから当然なんだけど。特に、最後に見せてもらった「ハートの7だけ右のポケットに入れ、残りのカードは左手に持つ。右のポケットを一回叩くと、そこからはカードが続々と出てくる。そして左手にはハートの7だけが残っている」というのは見事。おそらく、右手に注意を引きつけておいて左手でタネをいじくるというミスリーディングをやっていたのだろうが、まったくわからなかった。
 何人か勘違いしている人がいるようだが、さいかさんは女性ではない。マジシャンだけあって、うさんくさいおっさんです。
 しかし、このマジックを3次会まで温存しておくってのはもったいない。今度は1次会で、人体切断など是非<オフミでやることか?

 昨夜、『名探偵の掟』(東野圭吾、講談社ノベルス)を読み出したのだが、これが面白すぎて途中でやめられない。結局、2時半までかかって読了。ううっ、眠い……。
 でも、それだけの価値はあった。こんなに面白いなら、ハードカバーの時に買うんだった。つまりは「名探偵もの」のパロディーなのだが、ミステリとしても完成しているし、さすがは東野圭吾、うまい。私のツボに見事にハマった。「いいかげんな推理で無実の者を無理矢理犯人に仕立てあげる」ってネタは特にいい。私も「ダジャレ探偵」シリーズでやったけど、これほど上手くは書けないなあ。
 まあ、『六枚のとんかつ』(蘇部健一、講談社ノベルス)との違いは、「オレだったらもっと上手く書けるのに」と思うか、「オレにはこれほど上手くは書けないなあ」と思うか、という点だろう。というか、そもそも蘇部健一と比較すること自体が間違いか。

 週刊少年ジャンプ、『封神演義』は巻末を脱出。とりあえず、ホッ。



4月5日(日)

まねしフォーマット/土曜日/花見/午後2時吉祥寺/新屋さんとみやちょの見飽きた顔/さわやかに怪しいLIONさん/誰が来るのかさっぱりわからん/井の頭公園へ/女子高生に声をかける龍成/モバイルでチャットに書き込むみやちょ/モツ鍋を作る新屋さん/龍成珍獣説/のりりんに電話/ねぎねぎで〜す!/意外と普通のボヤキ奥様/1次会/おめでとうGG/四十人以上/誰が誰なんだか/顔と名前を一致させる試みは放棄/というか名前を聞いても知らない人が多いし/よろずやさん軽すぎ/髪を切ったフナイアキラ/2次会/靴と靴下/ラングとパロール/シニフィアンとシニフィエ/この中に不機嫌さんがいる!/はずれ/しおりん登場/予想より××××/やっぱり首をしめられる/スケベオヤヂと化してしおりんにセクハラ/反撃/殴られる/蹴られる/しくしくしく/3次会/さいかさんのカードマジック/爆睡/金を払った記憶なし/すまぬ/4次会/ここでも金を払った記憶なし/すまぬ/そればっかりかい/午前5時の三鷹駅/まだ眠い/帰阪


今日買った本:
『名探偵の掟』(東野圭吾、講談社ノベルス)
『今はもうない』(森博嗣、講談社ノベルス)



4月3日(金)

 いつもどおり会社に行き、いつもどおり仕事をして、いつもどおり帰宅する。あまりにも平凡な日常。
 ……って、やっぱりそうか!

 明日は東京。



4月2日(木)

 昨夜は期せずして二つの掲示板で論争が勃発。やはりシンクロニシティーか?(←好きだな、それ)

 フランケンさんの『いかてつボード』の方は、私は第三者だし、外野で眺めている単なる野次馬だったのだが、高坂れんむさんが会長の『森博嗣ファンクラブ』の中の『森ぱふぇすくらんぶる』の方では当事者。というか火付け役か。きゃー。
 まあ、あそこには議論自体を嫌う人もいるようだし、一応の決着はついたので、ここであれこれ書くのはやめておこう。

 しかしなあ(←って結局書くのか←すまん)たかがあの程度の書き込みに激昂して、わざわざ匿名Remailerまで使って剃刀メールを送ってくるとはねえ。
 森博嗣のファンって、こんなやつらばっかりかい!
 ……とは思いたくはないが、以前にも来たし、こうも続くとどうにもやりきれなさを感じてしまう。



4月1日(水)

 今まで黙ってたけど、私、来月に結婚します!

 ……などというウソも空回りする4月1日、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 4月1日は、98年度開始の日である。午前9時から、衛星放送で全国の事業所を結んで社長の期初月令があった。
 そういうわけで、今日はフレックスは停止。9時に出社しなければならないのだ。ふだん10時出社が当たり前になっている私としては、これはきつい。目覚まし時計2個を使用して、なんとか気力で起床。
 いやあ、早起きするとすがすがしいなあ。と思ったが、あいにく曇りだ。しかも午後からは雨の予報。まあ、どうせ屋内で仕事しているんだから天気は関係ない、と萎える気を奮い立たせ出社。仕事はいつも通り。
 いつもより早く出社したんだから早く帰ってもいいだろう、ということで定時を過ぎると早々に帰宅した。

 先日購入した『The KITARO』を読む。
 推理作家の京極夏彦が執筆した、アニメ版『ゲゲゲの鬼太郎』の脚本が収録されていた。これが、実に上手い。鬼太郎の世界観を尊重しつつ、京極独自のアイデアも取り入れて、違和感なく見事に仕上がっている。さらに、脚本だけでなくゲストキャラクターのデザインや声優まで手掛けているのだ。多芸な人である。
 ゲストキャラクターは、言霊使いの一刻堂。この一刻堂の先祖が500年前に妖怪ぬらりひょんに恩義を受けた縁で、鬼太郎退治に力を貸すことになる。この言霊使いの攻撃がいかにも京極らしくて、鬼太郎の仲間たちの名前を忘れさせてしまうのだ。
 名前のないものは存在しない。名前が思い出せなくなったとき、鬼太郎の仲間たちは妖怪ではなくなってしまう。砂かけ婆は砂の山に、ぬりかべは土壁に、子泣き爺はかぼちゃに、一反木綿は一反木綿に(←そのままやないか!)、「戻って」しまうのだ。目玉の親父がUFOキャッチャーの景品に「戻って」しまうのが笑えるが、そういうわけで鬼太郎たちの最大の危機である。
 鬼太郎がどうやってこの危機を克服したかは本編を見てもらうことにして、例の決めゼリフ「この世に不思議なものなどないのだよ」も出てきてマニア必見の逸品。……といいつつ、実は私も見てないんだよなあ。ビデオが発売されたら絶対買うぞ。

今日買った本:
『西遊妖猿伝』1・花果山之巻(諸星大二郎、潮出版社)
『メフィスト』小説現代5月増刊号 ←今まで、雑誌はここには書いてなかったんだけど、まあ一応。





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