第83回   葛西伊右衛門捕物控 1996.12.16


「葛西さま。入ってもよろしいですか」
 次の間から声がした。おそらく、同心の原島甚兵衛だろう。
 私は答えた。
「うむ。入りなさい」
 ふすまを開け、甚兵衛が入ってきた。
「葛西さま、実は‥‥」
 甚兵衛は口ごもる。
「何だ。話してみなさい」
「はい、実は‥‥。本所深川の墓場に、幽霊が出る、といううわさが立っていまして‥‥」
「またか」

 私の名は葛西伊右衛門、南町奉行所の筆頭与力である。そして、甚兵衛は私の部下だ。
 私が甚兵衛の言葉に対して「またか」と答えたのには、わけがある。実は今、江戸の街では奇怪な事件が相次いでいるのだ。神隠しにあったの、蔵が空を飛んだの、狐に化かされたの、河童に頬を叩かれたの、化け猫に肩をもまれたの、緑色の巨人に踏まれたの、カリメロに睨まれたの‥‥。
 訴えがあれば調べないわけにもいかないので、いま奉行所は大忙しだった。しかし、謎が解けた事件は一つもない。どの事件にも手がかりはほとんどなく、しかし目撃者だけが増えていった。そんなわけで、今や奉行所は‥‥いや、江戸幕府全体が不調であった。幕府スランプである。
 それに加えて、今度は幽霊だ。私はうんざりしていた。

「その程度のことなら、甚兵衛、お前ひとりでも調べられるだろう」
「いえ、私はその、妖怪変化のたぐいが苦手でして‥‥。ここはひとつ、与力の葛西さまにお願いしたいと‥‥」
 幽霊が怖いとは、武士の風上にも置けない、情けない奴だ。何が武士だよ甚兵衛は。

 というわけで、結局、私が調査をおこなうことになった。

 まず、幽霊が出たという墓場の近くで、情報を収集することにした。
 私は、『待古庵』というしゃれた名前の一杯飲み屋に入った。そこにはすでに十人近い人々が集まり、声高に話をしていた。どうやら例の幽霊の話のようだ。
 会話が止まり、皆が私の方を向く。
「ちとわけがあってな、いま話していた幽霊だが、私が調べることになった。みんな、詳しい話を聞かせてくれ」
「与力の葛西さま直々にお出ましになるとは、ありがたいことでございます」
 そして、そこに集まった人々は口々に自分の知っている情報を話し始めた。しかし、食い違う話も多く、どれが本当なのかわからない。共通しているのは、「あの墓場に、白い着物を着た何かがいる」という点だけだ。
 やはりこれは、実地に調べてみるしかないだろう。ちょうど日も落ち、暗くなってきた。私はその店を出ると、一人で墓場へと向かった。

 墓場へ向かう道は暗く、すでに人っ子一人歩いていない。柳の木が何本も植わっており、いかにも幽霊の出そうな雰囲気だ。
 甚兵衛にはあんなことを言ったが、実は私も、幽霊が苦手なのだ。墓場に近づくにつれ、だんだんと怖くなってきた。そこで私は、陽気な歌を歌って恐怖心を紛らわせることにした。
「来たの〜墓場通りには〜」
 だめだ。声が震えている。歌ぐらいでは恐怖心は去らない。今度は、お経を唱えることにした。
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」
 少し勇気が出てきた。これで何とかなるだろう。やはり、男は読経、である。

「誰ですか? うるさいなあ」
 突然、墓石の陰から声がした。
「なななな何者!」
 私はうろたえた。刀の柄に手をかけ、鯉口を切る。
「失礼、これは驚かせましたか。いや、怪しい者ではありません」
 立上がって出てきたのは、中年の男だった。なるほど、白い着物だが、幽霊には見えない。私は、安心して聞いた。
「あなたは?」
「はい、長州は防府の、義平と申しまして、こうして諸国を巡礼しております」
 どうやら、ただのお遍路さんだったようである。
「なるほど。しかし、なぜこんな所に?」
「はい、路銀も乏しくなったので、ここ数日野宿をしていたのです」
 実にあっけない話だ。まあ、幽霊の正体などこんなものだろう。
「巡礼はもう、長いのか?」
「はい。はじめに四国八十八カ所をめぐりまして、その次は西国三十三カ所、これから奥羽の方へ行こうかと思っています」
「‥‥つまり、遍路は続くよどこまでも、だな」

 私は『待古庵』へ帰り、残っていた人々にてんまつを話した。人々は喜んでいた。私は別に大したことはしていないのだが、とにかく、幽霊の謎が解けたことが嬉しかったようである。
 奉行所へ戻ろうとする私に、人々はこんな歌を歌ってくれた。
「与力よ〜今夜も〜ありがとう〜」


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