第85回   浦島太郎 1996.12.18


 子供のころ、私は貧乏だった。
 正確に言えば、私の親が貧乏だったわけだが、とにかく、両親と私の三人の暮らしは決して裕福なものではなかった。食事も満足にできない、というほどではなかったにしろ、3時のおやつなどはほとんど食べたことがなかった。たまにおやつが出ると、せんべい一枚、とか、そんなものだったのだ。
 だから、友人がおやつにカステラなどをもらっておいしそうに食べているのを見ると、わが家のエンゲル係数の高さに思いをはせ、つい涙を流したりしていたのだ。やはり、3時のおやつは文明度、なのである。

 父親は当時、理髪店に勤めていたが、この店がまた、閑古鳥が鳴くほど客が来なかった。あまりの客の少なさに耐えかねたのか、ついにペット相手の散髪まで始めてしまったのだ。猫の毛も刈りたい、ということである。

 そんなわけだから、家も狭かった。6畳一間のアパートである。そこで三人が暮らしていたわけだが、寝るときはやはり、古来の言い伝えにしたがって、河の字になって眠っていた。
 これはつらかった。どうしても不自然な姿勢になってしまうのだ。昔の人はよほど体が柔らかかったんだろう、と思いながら、毎晩無理に河の字になって寝ていた。
 しかしある日、悲劇が起こった。父親が寝返りを打ってタンスに足をぶつけ、そのタンスが私たちの上に倒れてきたのだ。三人とも頭を打ち、記憶喪失になってしまった。お互いの顔さえ覚えていない状態になってしまったのだ。まさに、親子三人見ず知らず、である。

 まあ、この記憶喪失はすぐに治ったので事なきを得たのだが、タンスの下敷きになったことは私のトラウマになり、それ以来地震が怖くなってしまった。
 地震が怖い、とくれば、当然、雷も怖くなければいけない。その上、母親から掃除や洗濯を頼まれるのも怖かったのだ。地震雷家事手伝い、である。

 その母親からは、色々な童謡を教えてもらった。それを近所の友達と歌っていたのだが、この私のことだから、まともに歌うわけがない。替え歌を作って楽しんでいたのだ。
 一時流行っていたのは、歌詞の一部を勝手に「ヘソの下」に変えてしまう、というものだ。さまざまな童謡で試したが、『浦島太郎』の場合が一番面白かった。この歌は、七五調のきれいなリズムになっているのだが、この五の部分を「ヘソの下」に変える。すると、このような詞になるのだ。

 むかしむかし ヘソの下
 助けたカメの へその下
 竜宮城の ヘソの下
 絵にもかけない ヘソの下

 乙姫さまの ヘソの下
 タイやヒラメの ヘソの下
 ただ美しく ヘソの下
 時のたつのも ヘソの下

 今にして思えば実に他愛のないものだが、友達はとても喜んでくれた。そして、私は一気に人気者になった。自信がついた私は、他にも色々と替え歌を発表していった。
 しかし、この自信が命取りになったのだ。その後発表した替え歌はどれもつまらないものだったのに、私はずっと自分の才能に自信を持ったままだった。その態度が鼻についたのだろうか、私は友達に見放され、いじめられっ子に転落してしまった。友達は、私が過剰な自信を持っていたことをからかいのタネにした。
 その他にも二つ、からかいのタネがあった。
 一つは、私の身だしなみである。貧乏なので高い服を買えないのは仕方ないのだが、とてもだらしない格好をしていたのだ。
 もうひとつは、痔である。情けないことだが、子供の頃は痔を患っていたのだ。
 いじめっ子たちは、この三つをからかいのタネにした。彼らは、私の所へ集まると、こんなかけ声をかけていたのである。
「自信か身なりか痔をヤジれ!」


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