第142回   僕の最後の日記 1997.6.25


6月25日

 この数日間は、何も手につかなかった。
 今、やっと、日記を書ける程度には冷静になってきた。
 書きたくはないが、書いておかねばならない。
 僕の愛したマリアの死について。

 その日、僕とマリアは基地から百キロほど離れた湖へ調査に行った。
 湖には、多数のムシュフシュが棲息している。このムシュフシュにはマーカーが取り付けられ、衛星から生態を観測しているのだが、数日来、シグナルが途切れる個体が激増していたのだ。故障にしては数が多すぎる、ということで直接調査することになった。
 生態学は僕の仕事であり、マリアの専門は地質なのだが、たまたまこの日は非番ということもあり、僕につきあってくれたのだ。
 僕は湖畔に車を止めたて水面をながめる。いつものように静まりかえって、おかしなところはない。
 マリアがはるか沖合いを指さす。何かが浮いている。双眼鏡を取り出して眺めると、ムシュフシュの死骸のようだった。僕とマリアは車からボートを出すと、湖上に漕ぎ出していった。
 それは、無惨に食いちぎられて見る影もなかったが、やはりムシュフシュだった。調査のために死骸を持ち帰ろうと手を伸ばしたとき、突然、水面が割れた。
 牙をむき出した巨大な口。ティアマットだ。この星の水棲生物の食物連鎖の頂点に立つ肉食生物である。
 外洋にしか棲息しないと思っていたのだが、淡水にも棲めたとは。まだ調査が不十分だったようだ。
 などと考えている余裕はなかった。
 ティアマットの巨大な尾がボートを叩いた。
 そこで僕の意識は途切れた。

 気がついたとき、僕は水辺に倒れていた。
 マリアはいなかった。
 基地のメンバー全員で捜索したが、結局、マリアは見つからなかった。

 僕は、マリアのいない部屋で一人で寝た。


6月26日

 マリアが帰ってくる、という話を聞いた。
 正確には、マリアのクローンである。

 辺境の惑星で勤務する僕たちのような調査員は、事故などで死亡する確率が通常より高い。
 しかし、調査員は専門教育を施されたエキスパートである。その能力を惜しんだ政府は、あらかじめ僕たちのクローン登録をしているのだ。
 もちろん、肉体だけでなく「記憶=知識」も再生される。MTスキャナにより、脳に格納された情報のすべてを記録できるのだ。そしてこの記録は、別の脳に転送できる。もっとも、シナプス配列が違えば転送しても意味がないので、転送されるのは、本人の、それも同年代の脳に限定される。
 だから、クローンが必要になるのだ。マリアのクローンは培養槽で成長加速され、2ヶ月で大人になる。

 マリアが帰ってくるのは、9月。
 そうだ。マリアは死んでいない。
 ちょっと旅に出ていただけだ。
 9月になれば、マリアに会える。


9月2日

 待ちに待った日。今日は、マリアが帰ってくる日だ。
 僕は嬉々として空港まで出迎えに行った。
 シャトルからマリアが降りてくる。マリアだ。確かにマリアだ。
 僕はマリアに駆け寄った。
 マリアは僕の方を向き、微笑んで、言った。

 はじめまして。

 足が止まる。
 マリアがMTスキャナにかかったのは、この基地へ来る前。そして、僕がマリアに出会ったのは、この基地で。
 マリアの記憶に、僕はいない。
 僕を愛した記憶は、マリアにはない。


9月3日

 帰ってきたマリアは、マリアではなかった。
 表情。声。知識。そして、左手の人差し指と中指で髪をもてあそぶ癖。それはすべて、まぎれもなくマリアだが、僕の愛したマリアではなかった。

 マリアでないマリア。
 このマリアを見ていると、つらくなる。
 僕の愛したマリアは、ここにはいない。やはりマリアは、あの日、湖で死んだのだ。
 明日は、湖に行ってみよう。




「僕」の日記は、ここで終わっていた。
 9月4日、「僕」は湖に行き……そして、そのまま帰ってこなかった。
 数日後、ティアマットに食い荒らされたらしい遺体の一部が見つかった、という話である。
 自殺だ、といううわさも流れたが、真相は不明だ。

 僕は、日記をマリアに返すと、目前の湖をながめた。
 この湖に、「僕」と「マリア」が眠っている。

 クローン再生された僕には、当然、「マリアを愛した僕」の記憶はない。
 日記を読めば、何か感じるものがあるかもしれない、と思った。しかし、「僕」の気持ちは僕にはわからなかったようだ。

 僕のとなりにいるマリア。
 マリアは、僕にとって、同僚の一人だ。それ以上でもそれ以下でもない。

 どうする? この湖の担当から、はずしてもらう?

 マリアが聞く。

 僕は、首を振って答えた。

 いや。このまま続けよう。……別に、つらい思い出があるわけでもないし、ね。


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