第188回   電氣仕掛けの俺ン家  1998.6.28





 先日、古書店で『煽情實話』(夏声書院、昭和二十五年三月号)という古い雑誌を購入した。誌名から大体想像はつくと思うが、昭和二十年代に多数発行された、いわゆる「カストリ雑誌」のひとつである。
 この雑誌に、「電氣仕掛けの俺ン家」と題する随筆が掲載されていたので、今回はこれを紹介することにしよう。ごく短い物なので、全文掲載する。なお、表記は可能な限り原文を尊重したが、やむを得ず新字体に直すかひらがなに開いた漢字もある。
 この随筆、筆者はあの有名な楠原楠彦である。いまや巨匠と呼ばれる氏も、若い頃はこんなくだらない文章を書いていたのだ。しかし、内容といい文体といい、どことなく私の書いたものに似ているような気がするが……いやいや、おそらく気のせいだろう。


 遂に我が家にも、電氣洗濯機がやつて來た。勿論、やつて來たと云つても電氣洗濯機が自分で歩いて來た譯ではない。幾ら電氣仕掛けでも其処まで凄くは無い。近所の電噐屋がオート三輪に乘せて運んで來たのだ。
 是で、盥と洗濯板でやつてゐた洗濯ともオサラバである。特に冬場の洗濯と云へば其の辛さは筆舌に盡くし難い。その辛さから遂に解放される日が來たのだ。民主々義萬歳。私は感涙に噎び泣いた。……あゝいや、勿論此は單なる言葉の綾で、實際に噎び泣いたのは私の女房である。亭主關白の私が自分で洗濯などする筈がないではないか。家亊一切は総て女房に任せてゐるのだ。全く、良く出來た女房である。と書いておけと女房が後ろから指圖してゐるのだ、仕方が無いだらう。え、余計な亊は書くなつて。あゝわかつた、わかつたから箒を振り上げるんぢやない。
 と云ふ譯で本題に入る。
 最近の科學の發達は目醒ましい物がある。一昔前迄は人間の手でおこなつてゐた亊が、どんゝゝ電氣仕掛けになつて來てゐるのだ。電氣洗濯機、電氣冷蔵庫、電氣掃除機、電氣鰻、電氣ラヂオ、電氣ブラン。殆ど空想科學小説の世界である。十年後、二十年後には、一躰どれだけの物が電氣仕掛けになつてゐるのだらうか。其処で今日は、どんな物が電氣仕掛けになるか、勝手に豫想してみやうと云ふ趣向だ。豫想なんかよさう、等と野暮な亊は云はずに讀んで貰ひたい。
 まづは、電氣便所と云ふのはどうだらうか。近頃ではトイレツト等とも云ふらしいが、電氣仕掛けの便所と云ふのも面白さうだ。何処が電氣仕掛けかと云ふと、近づいただけで勝手に扉が開く。いや、勝手の扉では無く便所の扉である。我が家の便所の扉も勝手に開く亊があるが、此は電氣仕掛けでは無く、まして幽靈や妖怪の仕業でも無く、單なる安普請の所爲である。そして、便噐に蹲むと……いや、此処は矢張り、和式では無く洋式便器の方がいゝか……便噐に坐ると、下から電氣仕掛けの手が出て來て尻を拭いて呉れるのだ。尻だけならまだいゝが、其の手が別の所を触つて來たりすると困るな。嗚呼、其処は駄目。そんな所を触つちや、いやんいやん。
 電氣風呂、と云ふのも面白さうだ。釦を押すだけで、勝手に水を張り、勝手に湯を沸かして呉れる。此でもう、二里離れた川まで遥々水を汲みに行つたり三里離れた山まで遥々薪を取りに行つたりしなくてもいゝ譯だ。つて、何時の時代の話なんだか。おまけに此の風呂、電氣仕掛けの手が出て來て背中を流して呉れる。背中だけならまだいゝが、其の手が別の所を触つて來たりすると困るな。嗚呼、其処は駄目。そんな所を触つちや、いやんいやん。
 次は電氣布團である。釦を押すだけで、勝手に上げ下ろしをやつて呉れるのだ。勿論、此の布團からも電氣仕掛けの手が出て來る。えゝと、何の爲に出て來る亊にしやうか。まあ何でもいゝ。兔に角、其の手が別の所を触つて來たりすると困るな。嗚呼、其処は駄目。そんな所を触つちや、いやんいやん。
 拙い拙い、先刻から女房が怖い目をして睨んでゐる。こんなくだらないことばかり書いてゐるからだ。あゝわかつた、わかつたから箒を振り上げるんぢやない。
 さうだ、いつその亊、電氣女房と云ふのはどうだらうか。勿論、此の女房も電氣仕掛けの手で別の所を触つて來る譯だ。嗚呼、其処は駄目。そんな所を触つちや、いやんいやん。
 ……嗚呼、悪かつた悪かつた。謝る。謝るから、電氣掃除機を振り上げるんぢやない。先刻までは箒だつたのに早速電氣掃除機を遣ふとは、流石は我が女房、時代の最尖端を行つてゐる。等とのんびり考へてゐる場合では無いな。危ない。振り下ろすなと云ふのに。……ほつ、頭の寸前で止まつてゐる。よかつた。え、何、寸止め。成る程、寸止めの掃除機か。




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