第230回   寒い寒い寒い夜  1998.12.25





 その晩は近来まれにみる寒さだった。
 まるで北極と南極が一緒に来たような寒さである。あまりの寒さのため、ほら、手に持ったバナナも凍ってしまっている。どこかに釘はないのか。出る釘を打ってやるぞ。そんなことを考えながら、私は街を歩いていた。
 しかし、この寒さは尋常ではない。京都の冬は初めてだったが、これほどの寒さとは思わなかった。脳の神経シナプスが超電導でも起こしそうな寒さだ。凍死してしまったら、とうしよう。うむ、ダジャレも冴えている。これも超電導のおかげだろう。
 などと喜んでいる場合ではないのだ。もうすでに限界に近い。どこかで暖を取らなければ。現在の耐えられない寒さ。うむ、やはりダジャレも冴えている。って、だからダジャレなど言っている場合ではないというのに。

 そのとき。
 私の頬に一陣の風が吹いた。暖かい風である。どこだ。どこから吹いてくるのだ。私はその風に誘われるようにふらふらと道を歩いていき、角を曲がった。
 火だ。目の前の家が盛大に燃えている。火事だ。これはラッキー。暖まることができるぞ。私はにこにこしながら近づいていく。すでに野次馬も大勢集まり、消防車も到着しているようだ。少し離れたところでは、野次馬同志が言い争いをしているような声も聞こえる。私はその喧嘩を避けて人混みをかき分けると、野次馬の先頭へ出た。ロープが張られていて、これ以上は近づけない。
 私は両手を火事の方へかざした。ああ、暖かい。生き返るようだ。自然に笑みが漏れる。ああ、極楽極楽。
 すると突然、消防車が放水を始めた。こ、こらこら、消すんじゃない。せっかく人が暖まっているというのに。少しは人の迷惑も考えろよ。思わず消防車をにらみつける。
 その時、背中に視線を感じた。振り返ると、人混みから少し離れたところにスーツを着た目つきの鋭い男がいる。年齢は三十代後半、といったところか。その男が、鋭い目で私の方を見ているのだ。む、ひょとして惚れられたのだろうか。いやんいやん。私は目をそらした。しかし、その男はゆっくりと私の方へ近づいてくる。ああっ、そんな、まだ心の準備が……。
 その男は胸ポケットから黒い手帳を取り出した。警察手帳だ。す、すると刑事だったのか。まずい。いや、よく考えれば別にまずくはないのだが。そしてその刑事は低い声で言った。
「火事を眺めて、にこにこしていましたね」
「え、ええ、まあ」
「しかも、放水を始めた消防車をにらみつけていた」
「そ、それはその」
「その手に持っているものは何ですか?」
「ええと、バナナですが」
「なぜバナナなんか持っているのです?」
「はあ、釘でも打とうかと思って」
「ちょっと来てください。詳しい話は交番で聞きます」
 こ、これはもしや、放火の疑いをかけられているのでは? 気がつくといつの間にか私の左右に制服を着た体格のいい警官が立っている。そ、そんな。私はただバナナを持っていただけなのに。そんなバナナ。うむ、ダジャレも冴えている。って、だからダジャレなど言っている場合ではないというのに。

 そして私は交番の中にいた。石油ストーブは置いてあるが火がついていないため、ほとんど屋外と変わらないくらい寒い。スーツの刑事は調書とボールペンを持ってくると、私の正面に座った。
「さて、話してもらいましょうか」
「ええと、いやその、話せと言われても」
「すべて話して、楽になりなさい」
「ううむ、しかし、しゃべりにくいな、どうも」
「黙秘するつもりですか?」
「いや、ええと……そうだ、何かが足りないと思ったら、カツ丼だ。こういう場合は、カツ丼が必須アイテムでしょ?」
「ずいぶん図々しい犯人……あ、いや、参考人ですね。仕方ない」
 そう言うとその警官は振り向いて受話器を取り上げ、電話をかけた。カツ丼の出前を頼んでいるんだな。よしよし。

 しばらくすると、出前の兄ちゃんがやってきた。
「ちわーっ、来々軒です」
 む、来々軒? いやな予感。略していよかん。
「冷やし中華ひとつ、お待ちーっ」
 ああっやっぱり。よりにもよって真冬に冷やし中華とは。なんというイヤミな警官だ。来々軒も来々軒だぞ。冷やし中華の注文なんか受けるなよ。しくしく。でも食べるぞ。ずるずる。
 ふーっ、うまかった。寒い。でもうまかった。私はずっと持っていたバナナをデザート代わりに食べ始める。
「さて、満腹したところで話してもらいましょうか。なぜ放火などしたのです?」
「そ、それはええと」もぐもぐ。「バナナが黄色かったからです」もぐもぐ。
「よしっ、ついに自白したな。逮捕だっ!」
 ああっ、ちょっと待て、今のは言葉のアヤだ。私は放火魔ではないというのに。そんな悪行は、自分の息子を踏みつけて家出するような者にしかできないだろう。放火魔・シッタータ。うむ、ダジャレも冴えている。って、だからダジャレなど言ってる場合ではないというのに。

 まずい。どうやら本気で疑われているようだ。なんとか潔白を証明せねば。身にかかるピノコは払わねばならぬ。あっちょんぶりけ。
 私が両手で頬を押さえていると、二人の男が警官に連れられて交番に入ってきた。一人は痩せて眼鏡をかけた男、もう一人は太って頭にちょんまげを載せた男。二人とも服がところどころ破れ、顔にあざがついている。
「ん? どうした、その二人は」
 刑事が警官に尋ねる。
「はい、例の火事現場でどけのどかないのと喧嘩をしていたので、仲裁の上連行しました」
 なるほど、見物の特等席をめぐっての争いか。しかし、太った方の男はどう見ても相撲取りだが、ひょっとして、席取り、とかいうダジャレか?
「なるほど。まあ、事件にするほどのことでもないな。いちおう住所と氏名を聞いてから帰ってもらえばいいだろう」
 その二人の男はおとなしく椅子に座ると、警官の質問に答え始めた。
 まず、痩せた方の男が名乗る。
「つかい・ようです。塚井洋」
 その名前を聞いた瞬間、私の頭に天啓の如く閃くものがあった。私は立上がって叫ぶ。
「お前が放火犯だ、塚井!」
 全員が呆気にとられて私を見ている。さらに私の口からは、水のように言葉が流れ出る。
「なぜそんなことがわかるのか、って? なに、簡単なことだ。昔から言うだろう、火事と喧嘩はつかい……」
 私は口ごもる。待てよ。これでよかったのか? ひょっとして、馬鹿とはさみだったっけ?
 その瞬間、再び私の頭に天啓の如く閃くものがあった。私は、今度は相撲取りを指さして叫ぶ。
「お前が放火犯だ!」
 全員、呆気にとられたままだ。私の口からは、再び水のように言葉が流れ出る。
「なぜそんなことがわかるのか、って? なに、簡単なことだ。なんなら、ついでにお前の四股名も当ててやろうか? 江戸乃花、だろう?」


「おかげで放火犯を逮捕することができました。ありがとうございます」
 刑事が言う。
「いやなに、当然のことをしたまでです」
「どうやら、今夜の寒さに耐えかねて思わず火をつけてしまったようです。まったく、とんでもない男ですな」
「いや、こんな寒い夜には、火事でもいいから暖まりたいと考えるのも仕方ないかもしれません。同情しますよ」
「優しいですね、あなたは……。そういえば、まだお互い名前も知りませんでしたね。私は四条といいます」
「私は、久遠寺翔吾」
 そう、これが、私ことダジャレ探偵久遠寺翔吾と、京都府警の四条警部の出会いだったのだ。

 私は立ち上がり、交番から立ち去ろうとしながら言った。
「手に負えない事件があれば、いつでも私を呼んでください」
 四条警部も笑顔で答える。
「今度は真夏に、鍋焼きうどんでもごちそうしましょうか」
 そのジョークに笑いながら手を振って答えると、私は交番を出て、再び夜の街を歩き出した。事件解決の喜びで、寒さなど感じない。……と言いたいところだが、やはり寒いものは寒い。ぶるぶる。
 ああ、またどこかで火事でも起きないだろうか。ぶるぶる。とにかく寒くてたまらなかった。




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