第264回   昼下がりの街角で  1999.6.22





 とんでもないものを見てしまった。
 梅雨の晴れ間の昼下がり、私は駄菓子屋の前のバス停でなかなか来ないバスを待っていたのだ。すでに真夏を思わせるような太陽の下バス停に佇んでいたのは、スーツを着てネクタイを締めた四十才前後の男性、スーパーの袋を両手に下げた五十過ぎの女性、茶髪の女子高生、阪神タイガースの野球帽をかぶった男子小学生、そして私の五人である。

 通り過ぎる車を見ながらボーッとしていると男性の話し声が聞こえてきた。仕事の話をしているようだ。相手の声が聞こえないところをみると携帯電話だな、あのスーツの男だろうか、と思って振り返って驚愕した。確かにその男、直立不動で右手に握った何かを耳に当てて大声でこう喋っている。
「ええ、ですからその液晶パネルが明日中に百五十枚、どうしても必要なんですわ……はい……いやしかし、もう工場のラインもアポ取ってしもたんで……ええ、それはもちろんわかってますが、そこをなんとか……何やったら、こちらから受け取りに行ってもかまいませんけど……京都工場ですやろ?……そしたら、あさっての朝イチならどうです?」
 ところが、その男が右手に持っているのは携帯電話ではなく缶コーヒーなのだ。これは怖い。
 これが、わけのわからないことをわめいているのなら、ああそういう人かで済むのだが、なまじまともなことを喋っているように聞こえるだけに、これはかえって怖い。なるべくその男の方を見ないようにして、私は平静を装いつつバスを待っていた。横目でちらと見ると、おばさんも女子高生も男子小学生も平然としている。慣れているのか? この辺では有名な人なのか?
 その男の電話はさらに続いた。どうやらその男の会社は老舗の射出成型機メーカーでその液晶パネルはマレーシアへ輸出する機械のコントロール部の表示用部品らしい。この不況下でようやく成約にこぎつけた大口の商談だけに納期に遅れるわけにはいかない、これを逃すと不渡りを出す恐れさえあるのだ、などと聞こえてくる会話のおかげで私がその男の会社の内情に妙に詳しくなったころ、ようやくあさっての朝十時に納入するということで話がまとまった。その男は礼を言い、缶コーヒーのどこかについていると思われるボタンを押すとそれを胸の内ポケットにしまった。

 男は何事もなかったかのようにバスを待っている。ううむ、これはどう解釈すればいいのだ。仕方ない、見なかったことにしてしまおう。ところで、バスはまだ来ないのか。
 と考えていると、今度はおばさんの声が聞こえてきた。何気なくそちらを見ると。うわっ。今度はおばさんが、半玉のキャベツを耳にあてて何やら喋っている。
「やっと繋がったわ、奥さん……あんた電源切っとったんか?……なんやそうかいな、子供の手の届くところに置いといたらあかんで……そやそや、そんな話とちゃうねん、今マルエツ行ってきたとこなんやけどな、カシワがえらい安かったで……ちゃうがな、それはベルギーの話やんか」
 どういうことだ。この辺はこんな人が多いのだろうか。くわばらくわばら。さりげなく周囲を見回すと、おじさんも女子高生も小学生も平然としている。仕方ない、私も平然としていよう。……ううっ、怖いよお。

 そのおばさんの電話が終わったころ、今度は女子高生の声が聞こえてきた。何気なくそちらを見ると。うわわっ。今度は女子高生が、常春の国マリネラの国技とも言われるリリアンの編み機を耳にあてて何やら喋っている。
「何してんのん?……ええやんええやん、そんなウザいオトコは放っといてマクド行こーや……今やったらシェイクが半額でお得やで、って、あたしゃマクドのまわしもんかい!……あ、抹茶はやめといた方がええで、うまないし」
 ううっ、いったい何がどうなっているのだ。相変わらず私以外の者は平然としているし。バスはまだ来ないのか。しくしく。

 そうこうするうちに女子高生の電話も終わり、今度は男子小学生の声が聞こえてきた。何気なくそちらを見ると。うわわわっ。今度はその小学生が、遮光器土偶を耳にあてて何やら喋っている。なぜ君はそんなものを持っているのだ、などとツッコむ気力もすでにない。
「新庄? あかんやんか……ちょっとは良うなったと思ったけど、もうあかんなあ……やっぱり、監督の力で引っ張ってこれるのもここまでや……そうそう、俺ら阪神ファンの夢はここで終わってん……はあ、ええ夢見せてもろた」
 何がどうなっているのかさっぱりわからない。しかし、相変わらず私以外の者は平然としている。そして相変わらずバスは来ない。誰か助けてくれ。
 そうこうするうちにその小学生の電話も終わった。再びあたりを静寂がつつむ。ううむ、この状況でいったい私にどうしろと言うのだ。

 仕方ない。私は意を決すると右足の靴を脱いで耳にあてた。架空の相手に対して話しはじめる。
「うえだですけど……そう、例のワンタイムPROMの件……とりあえず二十個ほど発注しといて……」
 ふと周囲を見ると、全員が化け物でも見るような顔をして私の方を見つめている。な、なぜそんな恐怖に引きつったような顔をするのだおじさんよ。目があったとたん顔をそらさないでくれおばさんよ。手を口にあてながら後ずさりするんじゃない女子高生よ。木の陰に隠れて指をさすな小学生よ。
 ど、どこが違うというのだ。あなたたちと同じことをしただけなのに。私は、どこか間違えたのか? どこがおかしかったというのだ? 教えてくれ。頼むから教えてくれ。ど、どうか教えてください。




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