第140回   グラスがふたつ 1997.6.12


「おい、グラスがひとつ足りないよ」
「‥‥え?」
 そのウエイトレスはけげんな顔をして言った。おれは、さらにたたみかける。
「もう一人いるじゃないか」
「‥‥え、でも、お三人さま‥‥」
「何を言ってるんだ。四人だよ。ここにいるのが見えないのか?」
 ウエイトレスはしばらく黙っていたが、やがて、泣きそうな顔をして奥へ走り込んでしまった。おれたち三人は、顔を見合わせて笑い転げた。

 もちろん、本当は四人目などいない。いるふりをしてだましているだけである。気の弱そうなウエイトレスを見つけると、こういうよくある怪談のパターンを使って怖がらせることにしているのだ。これで何度目になるだろうか。われながら悪趣味だと思うが、たまに見事にはまってくれるのでやめられない。

 そしてある日、おれは一人で喫茶店に入った。連れがいないときは、さすがに例のいたずらはしないが。
 おれが四人掛けの席に座ると、ほどなくしてウエイトレスがやって来た。おれの前に水の入ったグラスを置く。そして、おれの正面の席にも。
 グラスがふたつ。
 おれはとまどった。おれが来る直前にこの席に座ったやつがいて、そいつがトイレにでも行っているのだろうか 。しばらく待ったが、誰も戻ってこない。
 すると‥‥。おれにだまされたウエイトレスが、仕返しのためにこんないたずらをしたのだろうか。さっきのウエイトレスをだましたことがあったか思いだそうとしたが、わからなかった。それほどあちこちの店でやっていたのだ。
「ご注文はお決まりですか?」
 戻ってきたウエイトレスに、おれは聞いた。
「あのさ、これ、何?」
「え?」
「おれの前の席に置いてある、このグラスだよ」
「もちろん、お連れさまの分ですけど‥‥一緒に入ってこられましたよね? あれ? もう一人のかたは?」
「‥‥おれ、帰るわ」
 結局、何も注文せずにその店を出た。

 それ以来、この「現象」はひんぱんに発生するようになった。
 おれが一人で店にはいると、必ずといっていいほどグラスがふたつ出てくる。そして、店の者に聞くと、二人で入ってきたという。しかし、おれの「連れ」の人相や服装をたずねても、誰もはっきりとは覚えていないのだ。
 おれは次第に、外食を避けるようになっていった。グラスの向こうに、目に見えない誰かが座っている、そんな気が‥‥いや、もちろん、気のせいに決まっている。しかし‥‥。

 今日、おれは久しぶりに喫茶店に入った。そろそろほとぼりもさめた頃だろう、と思ったからだ。
 そして、たまたま見かけた新装開店の店を選んだ。何より、そこにはカウンター席があったからだ。カウンターに座れば、おれの正面にグラスを置かれることはないだろう。
 おれは店に入り、カウンターに座る。ウエイトレスがやって来てグラスを置く。おれの目の前にひとつ。そして、おれのとなりの席にひとつ。
 もちろん、となりは空席である。しかし、グラスはふたつあった。おれの背筋を、冷たいものが走った。
 いる。
 なにかがいる。
 はっきりと気配を感じることができた。おれのとなりの席に、目に見えないなにものかが座っているのだ。
 おれは悲鳴をあげて、その店を飛び出していた。無我夢中で走る。
 しかし。まだ気配を感じる。「そいつ」がついてきているのだ。
 おれはさらに走る。
 そして、車道に飛び出した。
 車が来た。

 ふと、われに返った。
 さっきの車は、何事もなかったかのように走り去っていった。
 そして、気配も消えている。さっきの車にはねられたのだろうか、もはや「そいつ」の存在は感じとれなかった。
 おれは安心して、歩き出した。もう大丈夫だ。「そいつ」は消えた。
 そしておれは、目についた喫茶店に入った。

 四人掛けの席に座ったが、ウエイトレスはおれに気付かないのか、なかなかやってこない。
 声をかけようかと思ったとき、ようやくこちらにやってきた。一瞬どきっとしたが、大丈夫だ。持っているトレイの上には、グラスはひとつしか載っていない。
 ウエイトレスは、おれの方を見もせずにグラスを置く。おれの正面の席に。
 そして、おれの目の前には、何もなかった。
 ウエイトレスは、そのまま立ち去っていった‥‥。


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