裏ぽた・98年5月


5月31日(日)

 せっかく書いたんだから、ここからもリンクしておこう。
 『海のある奈良に死す』(有栖川有栖、角川文庫)というミステリを昨日読了したのだが、使用されているトリックが実現不可能なものなのだ。しかも、作者自身はどうやら実現可能なものだと思い込んでいるらしい。ううむ、トンデモ本に惑わされとるなあ。詳細はこちらを参照。ただし、トリックをバラしているので未読者は注意のこと。

 今日も今日とてダイエーへ買い出し。店内が改装され新しくなったのはいいのだが、食品等の配置が大幅に変わっている。どこに何が置いてあるのかよくわからず、カゴを持って右往左往。タマゴはどこだ。ビールはどこだ。コメはどこだ。あちこち彷徨して、どうやら普段の三倍くらいは歩いていたような気がする。
 以前の配置は頭に入っていて、どう歩けば効率的に買い物ができるかも把握していたのに、それがもろくも崩れさってしまった。私に黙って改装などするんじゃない! しくしく。



5月30日(土)

 君は野に咲く あざみの花よ 見ればやさしや 寄れば刺す


今日買った本:
『「吾輩は猫である」殺人事件』(奥泉光、新潮社)
『グランド・ミステリー』(奥泉光、角川書店)
『土曜ワイド殺人事件』(とり・みき×ゆうきまさみ、徳間書店)



5月29日(金)

 今日の午後、後輩の一人が早退した。気分がすぐれない、ということである。

 実を言うとこの後輩、数日前に人間ドックに行ってきたのだ。先日の昼食時、その時の話を聞いた。
 特にどこかが悪いというわけではなく、ちょっと調べてみるか、会社の斡旋で安く行けることだし、という理由だった。で、その人間ドックで胃カメラを飲んだのだ。
 この胃カメラというのが、ものすごく太かったらしい。缶コーヒーくらいの太さだということだ。
 当然、みんなからツッコミが入る。おいおい、そんな太い胃カメラがあるか。せいぜい鉛筆くらいの太さだろう?
 しかしその後輩、本当に太かった、と言って譲らない。これを飲むときの苦労と言ったら、口をこう大きく開けて、上を向いて、缶コーヒーを握るしぐさをして、それを口の中に……。
 ううむ、そのポーズはなんだかアブナいぞ。公衆の面前でやるべきポーズではない。こらこら、手を前後に動かすなって。

 そんなこんなで、苦労してアブナい胃カメラを飲んで以来、体調が悪い、ということだ。で、今日は早退した、というわけ。
 しかしなあ、人間ドックで体調を崩すとは、本末転倒だぞ。


 『ローウェル城の密室』(小森健太朗、ハルキ文庫)読了。わはははは。



5月28日(木)

 筒井康隆の小説に、『最後の喫煙者』というものがある。『世にも奇妙な物語』でテレビドラマ化されたから、知っている人も多いだろう。こんな話だ。
 喫煙が悪習だとの認識が広まった近未来。社会のあちこちで、喫煙者は有形無形の迫害を受ける。レストランには「犬と喫煙者おことわり」の貼り紙が貼られ、ホテルには泊まれず、まともな職業にも就けない。道を歩くと石を投げられ、子供はいじめられる。そんなわけで喫煙者は急速に減少し、ついに地球上で最後の喫煙者となった主人公は……。
 ドラマ化された際には、新幹線の喫煙車両の描写があった。禁煙車は掃除もいきとどいていてきれいなのだが、一両だけ残った喫煙車はものすごく汚い。床にゴミが散らばり、座席は壊れ、窓ガラスが割れている。中ではホームレス風のおじさんが一人でぼんやりと煙草を吸っている。

 実は、会社の喫煙室で煙草を吸っているときに、このエピソードを思い出したのだ。
 今や会社では、喫煙室でしか煙草は吸えない。しかもこの喫煙室、完全に邪魔者扱いされている。レイアウト変更のたびに場所が変わるのだが、余ったスペースを使って作っているのが見え見えだ。そのせいか、年々少しずつ狭くなっているような気がする。
 中も汚い。机や椅子は古ぼけていて、どっかで余ったものをかき集めてきたようだし、それらが乱雑に置かれて出入りするのも一苦労だ。机の上には灰が散らばり、床には焼けこげの跡が。

 ふと、禁煙しようか、などと考えていた。まあ、考えただけだけど。



5月27日(水)

 朝。郵便局に寄って自動車税の支払い。34500円。

 昼。会社の食堂でビーフカツ定食。肉が固いぞ。

 夜。『ローウェル城の密室』(小森健太朗、ハルキ文庫)を読みながら電車で帰宅。本日124ページまで。

 仕事。これから夏ごろまで、ちょっと忙しくなりそう。



5月26日(火)

「もしもし。さて、私は誰でしょう。わかりましたら連絡してください。では」

 そんなメッセージが留守番電話に入っていた。
 記憶にある声だ。聞いているうちに思い出してきた。そう、高校時代の友人のアイツである。百パーセント確証があるわけではないが、たぶん間違いないだろう。
 高槻駅前で飲んだのが最後だから、もう五、六年ぶりだろうか。あのときは、写真集を出すの出さないのという話をしていたっけ(撮られる方ではなく、撮る方である。為念)。久しぶりに会いたくなった。

 で、コイツの電話番号は、というと……アドレス帳を見たが、書いていない。ううむ、書き忘れたか。そういえば以前、転居通知の葉書が来ていたな。あれはどこにしまったっけ?
 迷子の迷子の葉書ちゃん、あなたの居場所はどこですか? タンスを開けてもわからない、押し入れ開けてもわからない……などと歌いながら探していたが、いかん、ホントにわからないではないか。
 自慢じゃないが、物持ちはいいけど、どこに持っていたかがすぐにわからなくなるのだ。ちゃんと連絡先も言ってくれればいいのに。
 だから、おーい、これを読んでいたら、もう一度連絡してくれ! 頼む!

 ……読んでないだろうなあ。しくしく。



5月25日(月)

 言葉や文字よりも絵や図の方がわかりやすい。活字メディアよりも視覚メディアの方が進んでいる。最近、こういった主張を目にすることが多い。
 どうもこの考えには釈然としないものを感じていたのだが、先日購入した『危険な文章講座』(山崎浩一、ちくま新書)を読んでいたら、思わず膝を打つ一節があった。


 考えても見てほしい。歴史的に見ても、そもそも絵や図象ではコミュニケーションに不自由だからこそ、人類はより自由で普遍的なコミュニケーションを可能にする言葉や文字を発明しなければならなかったのだ。そして、それはまちがいなく人類史上の最大・最高の発明品だった。


 まさにそのとおり。
 先史時代の壁画に始まり、それがメソポタミアで絵文字になり、抽象的な記号だけを用いる楔形文字が登場し、多様な意味を持つ汎用性を獲得し、さらに洗練と複雑化の度を増し、目に見えない形而上の概念さえ表現し、記録し、時空を越えて共有できるようになり、ほぼ無限の表現力を持つまでに進化してきたのだ。絵の持つ「わかりにくさ」を克服するために気の遠くなるような努力を経て進化してきた言葉や文字が、絵や映像よりわかりにくいはずがないだろう。
 確かに、絵や音楽や映画は、言葉では表現できないものを表現できる。しかし、それらをわかりやすく説明しようとすれば、やはり、言葉に頼るしかないのだ。絵の説明、音楽の解説、映画の評論、それらはすべて言葉で語られる。もし言葉で書かれたものが「わかりにくい」なら、それは使い方を間違えているだけなのだ。

 ……とまあ、柄にもなくそんなことを考えていた。この話題、そのうちにもう少し掘り下げてみたい。例えば、「高齢者の中には漫画が読めない、漫画の読み方がわからない人がいる」という話と絡めてみても面白いだろう。



5月24日(日)

 というわけで、ぷろくらオフに関しては『ぷろくらオフニュース・捏造版』を参照してください。これだけ書くのに3時間もかかった。やっぱり遅筆だなあ。

 ネタにしてしまった皆様、申し訳ありません。しくしく。訂正はしませんが、お詫びします。



5月22日(金)

「おおい、ちょっと、誰か教えて」
 突然そんなことを言い出すのは課長である。
 私の席は課長の席の近くにあり、その声は耳に入っていたのだが、こっちもややこしい仕事の最中、とりあえず聞かなかったことにする。
 用件はわかっている。Excelの使い方がわからないので教えてくれ、というのだ。最近はこればかりである。
 この課長、もともとはハードウエアが専門でそっちの方の技術は大したものだったらしいが、パソコンにはあまり強くない。それでもなんとかメールの読み書きができる程度には使いこなせるようになったようだ。
 で、最近はExcelを使いこなそうと四苦八苦している。その努力は買うのだが、わからないことをすぐ人に聞くのはやめてほしいなあ。マニュアルとかヘルプがあるだろうに。
「ちょっと、誰か」
 まだ呼んでる。しかし、誰も助けに行かない。みんな、そうやって知らんぷりするのか。冷たいぞ。誰か助けてやれよ。まあ、名指しせずに漠然と助けを求める方にも問題はあるけど。
「たみちゃん、これ教えて」
 う。ご指名ですか。指名料は高いわよ。
 ううむ、呼ばれたからには行かねばならぬ。仕方ない、助けてやるとするか。

 しかし、私は一体いつまで「たみちゃん」と呼ばれ続けるのだろうか? ……まあいいんだけどさ。


今日買った本:
『エロイカより愛をこめて』23巻(青池保子、秋田書店)



5月21日(木)

 同僚に一人の男がいる。名を、仮にAとしておこう。今日、食堂で昼飯を食べていると、Aがこんなことを言い出した。
「どうやら、B社は危ないみたいですよ」
 B社というのは半導体製造装置の大手メーカーで、私の会社(というか、私の事業部)の上得意である。そのB社が、危ない?
「え? 危ないのか?」
「ええ、営業の人が言ってました」
「ううむ、それは大型倒産になりそうだな……」
「え? 倒産? 倒産するんですか?」
「……って、今おまえが言っただろうが」
「?」
 よく聞いてみると、「危ない」というのは、「業績が悪化して倒産しそうである」ということではなく、「うちの製品が競合メーカーに負けて、採用が取りやめになりそうである」ということだった。だったら、初めからそう言うように! 「危ない」なんて聞けば、誰でも倒産のことかと思うだろうが。とりあえず、一安心である。(ん? よく考えてみたら、安心してもいられないのでは?)

 このAだが、このように言葉が足りないというか、ちょっとずれているのだ。だから、聞く方には注意が必要である。まあ、特に悪気があってやっているわけではないのだが。
 気になるのが、「死ぬ」という言葉をよく使う点である。「このパソコン死にましたよ」という程度なら意味はわかるし特に害もないのだが、「Cさんは死にましたよ」と言われると一瞬どきっとする。もちろん、本当に死んでしまったわけではなく、単に「風邪をひいて寝ている」だけなのだが、それを「死ぬ」と表現するのだ。こういうまぎらわしい表現はやめてほしいなあ。
 しかし、本当に死んだときも「死にましたよ」というのだろうか。なんとなく、「狼と少年」の逸話を思い出してしまう。(そういえば、「狼と少年」のことも「狼少年」というなあ。それじゃあ狼男だって)


今日買った本:
『エイダ』(山田正紀、ハヤカワ文庫)
『日本殺人事件』(山口雅也、角川文庫)
『海のある奈良に死す』(有栖川有栖、角川文庫)
『危険な文章講座』(山崎浩一、ちくま新書)
 ……ううむ、また未読本の山が高くなってきたなあ。



5月20日(水)

 他人の藝を見て、あいつは下手だなと思つたら、そいつは自分と同じくらゐ。同じくらゐだなと思つたら、可成り上。上手いなあと感じたら、途轍もなく先へ行つてゐる。


 此の警句、以前は笑福亭松鶴師匠の言葉だと紹介したと思うが、間違いだつた。本當は古今亭志ん生師匠の言葉である。お詫びして訂正します。
 實は此の言葉、記憶には殘つてゐたのだが何処で覺えたのかどうしても思い出せなかつたのだ。テレビ等ではなく本で讀んだ筈だと思つて落語關係の本を色々探してみたが見あたらない。仕方なく記憶に頼つて書いたのだが、案の定間違えてゐた。其れに気附いたのは、今日『笑い宇宙の旅藝人』(かんべむさし、徳間書店)をぱらゝゝと讀み返してゐたからだ。さうか、此の本に載つていたとは盲點だつた。

 ついでに此の本からもう一つ。上岡龍太郎の言葉である。


 藝人がアドリブで云うてる科白の九割方は、前もって、あ、これはこういう時に使お、これはこういうシーンで云うたら受けるやろなあと、日々自分で頭の中で練習しといた物ですワ。そやから、アドリブ能力というのは本當は、仕込んどいたネタを如何に上手く出せるかという力ですナ。


 私の場合はどうかといえば、はつきり云つてアドリブは苦手である。そもそも思い附いたネタをデータベースで管理してゐるくらゐだから、覚えてゐられないのだ。普段の會話で出てくるギヤグは、殆どが其の場で思い附いた物である。だから、考察が甘い。ヒネリが足りない。タイミングを逸する。
 まあ、私が默つてゐる時は大抵ギヤグを考えてゐる物だと思つて下さい。しかし、結局いいネタが思い附かずにそのまま默つてゐる亊も多いんだよなあ。しくゝゝ。

 ……ああすいません、讀み難いですね。旧假名遣ひは今日限りにします。



5月19日(火)

 嗚呼、人生とは斯くも苛酷な物なのか。天は何故、我に艱難辛苦を與え給うか。運命に翻弄される憐れな仔羊に御慈悲を。

 臨時收入があつたことは昨日書いたが、今日歸宅してみると郵便受に一通の封書が。差出人は大坂府自動車税亊務所だ。厭な豫感(畧して伊豫柑←詰まらん)を覺えつゝ封を切ると、自動車税の納税通知書である。其の額、占めて参萬四千五百圓也。嗚呼、何たるちあサンタルチア(←旧假名遣ひになるとギヤグも古くなる)
 自動車税も、大體毎年此の時期に通知書が來るのだが、大體毎年其の亊を忘れてゐるので、大體毎年思わぬ臨時支出なのだ。しくゝゝゝゝ。
 ううむ、昨日臨時收入があつた時點で思い出すべきだつたのだらうが、どうやら厭な亊はすぐ忘れてしまうらしい。と云うか、良い亊もすぐに忘れるが。さう云えば、今日は晩飯を食べただらうか。ううむ。

 ところで、旧假名遣ひで書く時は、一旦現代假名遣ひで書いてから手作業で修正してゐるのだが、これが結構面倒臭い。漢字の旧字體への変換もうつかりしてゐると拔けが發生するのだ。旧假名遣ひ對應の日本語FEPつて、何処かに無いだらうか。無いだらうな。



5月18日(月)

 のほほほほ。本日またもや、臨時収入あり。工業所有権実績補償金、ということで39000円。
 これは何かというと、私の考案した特許を使用している商品が売れたとき、その売上高に応じて支給される補償金である。算出方法はけっこうややこしいのだが、売上高の一万分の一くらいか。今までに出してきたすべての特許の補償金を合計して39000円である。
 だいたい毎年この時期に支給されるのだが、だいたい毎年そのことを忘れているので、だいたい毎年思わぬ臨時収入なのだ。これで今週のぷろくらオフはなんとか乗り切れる。よしよし。

 まあ、私のようなぐうたら社員でも、十年以上も働いていればこの程度は売り上げに貢献し、この程度の金額は貰える、ということ。すごい人になると、補償金だけで数十万円になり別途確定申告が必要になるほどだ。うーむ、なかなかそのレベルまでは到達できないなあ。



5月17日(日)

 うーむ、今日の『しりとり大戦』ははっきり言って、キースさんの「それだけは聞かんとってくれ」のある回のパクリである。と言っても、内容や形式をパクったのではない。構造をパクったのだ。だから、ちょっと読んだだけではパクリとわからないかもしれない。ヒマな人は、どれが原典か探してみてください。

 笠原弘子のCDを買った。
 実は、ここのところ自宅でCDを聞いていない。なかなか自宅でゆっくり音楽を聞く時間が取れないのだ。最近はもっぱら、買ったCDはすぐに車のCDチェンジャーに放り込む、というパターンが定着していた。
 今日は久しぶりに自宅で聞くか、ということで、長らく使っていなかった、買ってから十年になろうかというCDコンポを動かした。ところが、こいつがCDを認識しない。故障か。仕方がないので、LDプレーヤーを使うことにする。これはCDシングルからLDまで再生できるというマルチプレーヤーだ。ところが、こいつもCDを認識しない。試しにLDを再生してみると、ちゃんと動く。どうやらCDだけ認識されないようだ。これも故障か。
 CDを聞くために車に乗る、というのもおかしな話だし、ううむ、どうしようか、と考えたら思い出した。もうひとつ、CDが再生できるマシンがあった。プレイステーションだ。
 というわけで、結局プレイステーションでCDを聞いたのでありました。


今日買った本:
『金春(こんぱる)』(唐沢なをき、白泉社) ←心ならずも古書店で購入。



5月16日(土)

 すでにだいたい予想はついていると思うが、昨日のアンケートの結果である。

  登録しろ = 2票
  登録するな= 2票
  消火器爆弾=13票

 というわけで、今日からこの日記名は「消火器爆弾」に変更する。(←そういうアンケートだったのか?)


 昨夜は結局、4時過ぎまで起きていた。『現代百物語・新耳袋』を読んでいたのだ。これが非常に怖くて面白い。
 この本、早い話が「怪談実話集」である。この手の本はけっこう沢山あるし、私も好きなのでよく読んでいるのだが、はっきりいってリアリティーのないものが多い。

 ……そして、のちほどの調べでわかったのだが、その家は江戸時代に押し込み強盗が一家惨殺の凶行をはたらいた場所だったという。
(そんなこと、調べたってそう簡単にわかるものじゃないぞ)

 ……そして、その「もの」を見た男はそのまま息絶えてしまい、翌朝になって死体が発見された。
(じゃあ、この話を記録したのは誰なんだ?)

 とまあ、こんなツッコミをしてしまうような話が多いのだ。
 しかし、この『現代百物語・新耳袋』は違う、ほとんど説明も解説もなく、不思議な話・怖い話がそのまま読者の前に投げ出されている。だから、かえって恐怖が増幅されるのである。
 たとえば、こんな話がある。


 ある雪の降った朝。アニメーターのOさんは都内を歩いていて妙なものを見つけた。
 人間が入り込むのは不可能と思えるビルとビルの狭い隙間に、うっすらと雪が積もっている。その真ん中にぽつっと、子供の素足の足跡がひとつだけついていたのだ。


 これだけである。
 普通の「怪談」だったら、「実は、そのビルの屋上から転落死した子供がいて……」などという説明をつくだろうし、もし私が書くとしてもやっぱり説明をつけてしまうだろう。しかし、この話には一切の説明はない。だからこそ、「現実に起こったこと」だというリアリティーを感じることができるのだ。現実世界の出来事には、起承転結がはっきりしていたり完全に因果関係が説明されていたりするものは少ない。
 ちなみにこの『現代百物語・新耳袋』、ネット上でも読めるようになっている。ここだ。怪談がお好きな方はどうぞ。


 そんなこんなで、今日は起きたらすでに12時。
 テレビで『吉本新喜劇』と『満開!ハッスル家族』を見る。雨の中、車でダイエーへ行き食料・酒・その他を買う。その後は家でたまっていた未読本をぱらぱらと。そんな怠惰な一日だった。


 ……あ、日記名は、明日からはちゃんと「裏ぽた」に戻しますので、そこんとこよろしく。



5月15日(金)

 朝は、さわやかに目覚める。昨日は相当飲んだはずなのに、宿酔いにはなっていない。どうも私の場合、飲んだ量が同じでも自宅で飲んだ方が宿酔いになる確率が高いようだ。

 駅から会社へ向かう道は、閑静な住宅街の中を通っている。そこを歩いていると、トミーズ健に似た警官の姿が目に入った。巻き尺を持って、なにやら地面を測っているようだ。
 むっ、現場検証か? 殺人事件でもあったのか? と思って近づいていくと、残念ながら……あ、いや、幸いなことに殺人事件ではなかった。自動車事故のようだ。車が一台、自転車が二台、そしてパトカーが止まっている。車も自転車も、ぱっと見ただけではどこが壊れているのかわからない。その自転車に巻き尺をあててなにやら測っている警官がもう一名。大学生風の男性から事情聴取をしている警官がさらに一名。この男性が自転車の持ち主のようだ。特に怪我をしているようには見えない。大した事故ではなかったのだろう。まあ、住宅街の狭い道だからそうそうスピードも出せないからな。
 その様子を横目で見つつ、通り過ぎる。ホントは野次馬になって、後学のために(←?)事情聴取や現場検証のやりかたをながめておきたかったのだが。いや、べつに、会社に遅刻しそうだったから、などという理由ではない。他に野次馬が一人もいなかったからだ。
 やっぱり、たった一人で野次馬になるってのは勇気がいるよなあ。

 ううむ、ところで、この「裏ぽた」も日記猿人に登録すべきだろうか。人に聞くものでもないと思うが、ここでアンケートでも取ってみるか。

    


今日買った本:
『現代百物語・新耳袋』第一夜(木原浩勝・中山市朗、メディアファクトリー)
『ローウェル城の密室』(小森健太朗、ハルキ文庫)
『空っぽの命』(小山田いく、秋田書店)



5月14日(木)

 今日は宴会。新たに私のセクションにやってきた三人の歓迎会である。
 私の三年下の後輩三人と同じ席になったのだが、この三バカトリオ(←馬から落馬してるか?)のせいで、ひたすら笑いっぱなしの宴会だった。

 この三人が何をするのかというと、ものまねをするのである。有名人のものまねではない。部長やら課長やら、身近な人間のものまねだ。
 で、この部長というのが森進一や田中角栄並みに特徴的な人物で、「ものまね初級」だそうだ。宮尾すすむのような手つきをして、ちょっと鼻に抜ける声でゆっくりとしゃべる。これでOK。私も、この部長のものまねならできる。実を言うと、セクションのメンバーの半分以上がこのものまねをマスターしている。って、どんなセクションなんだ。
 課長のものまねは中級。ちょっと甲高い声で早口でしゃべる。これをできるのは、数人しかいない。
 で、ものまねによる部長と課長の会話、ってのが最高に面白い。
「○○、ちょっと」
「あの件ですね。まだ出来てないんですよ」
「それは、あかんやろ、もう、全然ノー」
「そうですね、はい」
 ……などと書いても、この面白さは伝えられないなあ。しかし、これを本人の目の前でやるところがすごい。

 部長や課長だけではない。セクションのメンバーのほぼ全員がものまねの標的となっている。私もだ。私のものまねは中級だそうだが、聞いてみても似てるのかどうかわからんなあ。

 ひとつ問題がある。宴会でやるだけならまだマシなのだが、仕事中にもものまねが横行しているのだ。一番芸達者なヤツなど、仕事中の会話の半分が他人のものまねである。しかも、多数のものまねが目まぐるしく入れ替わるので、もうほとんど何が何やらわからない。
 この男、そのうちに多重人格障害にでもなるんじゃないのか? いや、もうなっているのかもしれない。この前、別の名前で呼ばれても返事してたし。



5月13日(水)

 はあ〜〜〜ああ。
 なんだかもう、今日は萎え萎え。午後一番、久しぶりに課長とケンカをしてしまった。

 あまり詳しく書くわけにはいかないのが残念だが(←残念なのか?)とにかく、出してきた要求が理不尽なのだ。私が矛盾点を指摘しても、「もう決まったことだから」の一点張り。だから、そういうことを「事後承諾」で進めてどうするっての。当事者の意見を聞けよ。
 ……といった文句を、課長に対して10分間ほどしゃべりまくる。で、なんとか課長からは「次回からは改善する」との言葉を引き出すことができた。仕方ない、今日はこれくらいで勘弁してやるか。

 そんなこんなで、午後からは仕事をする気力なし。だらだらとネットに繋いだりしながら、定時早々に帰宅した。

 しかし、昔の私だったら30分は文句を言ってただろうな。うーむ、私も丸くなったものだ。(←体格が?←いやん)

今日買った本:
『仮面よ、さらば』(高木彬光、光文社文庫)
『ドカベン・プロ野球編』18巻(水島新司、秋田書店)



5月12日(火)

 人生観を変えた10冊の本、か……。
 などと、突然こんな話をはじめたのは某氏の影響であるが、思いつくままに挙げてみようか。

 『銀河英雄伝説』全10巻(田中芳樹、徳間ノベルス)

 以上。って、ここでボケてどうする。
 とりあえず、あと9冊。なお、出版社名は私が読んだ版による。

 『モンテ・クリスト伯』(A・デュマ、講談社文庫)
 『デビルマン』(永井豪、講談社)
 『ドグラ・マグラ』(夢野久作、角川文庫)
 『利己的な遺伝子』(リチャード・ドーキンス、紀伊国屋書店)
 『いつもポケットにショパン』(くらもちふさこ、集英社)
 『風雲児たち』(みなもと太郎、潮出版社)
 『国家と神の資本論』(竹内靖雄、講談社)
 『笑い宇宙の旅芸人』(かんべむさし、徳間書店)
 『ゲーデル、エッシャー、バッハ』(ダグラス・R・ホフスタッター、白揚社)

 小説あり漫画ありエッセイありでバラバラだが、こんなところでいかがだろうか?
 一応、「いかにも私らしい」かつ「他人はあまり挙げそうにない」という基準で選んでみたのだが(←だからそういう観点で選ぶんじゃないだろっての)

 そもそも、人生観ってそんなにコロコロ変わらないよなあ。



5月11日(月)

 うーむ、今日のネタは、昨日考えていた「記憶」の話から派生したのがモロバレだな。

 何周年だか忘れてしまったが(←それはもういいって)今日は会社の創業記念日である。創業記念日には、毎年表彰がある。売れた商品の設計とか画期的な技術の開発とか大幅なコストダウンとかを実施した社員が表彰されるのだ。まあ、自分の仕事を自由に選べるわけではないので表彰されるかどうかには運も影響するのだが、今年は幸運にも表彰される側に紛れ込むことができた。
 某商品の開発、ということで表彰状+金一封。金一封は担当者で頭割りするので一人当たり26000円。思わぬ臨時収入があった。ふっふっふ。


今日買った本:
『学校怪談』9巻(高橋葉介、秋田書店)
『環境経済学への招待』(植田和弘、丸善ライブラリー)



5月10日(日)

 昨日柳瀬尚紀の本を讀んでゐたら、何故だか『ゲーデル、エツシヤー、バツハ』を讀み返したくなつた。いや、何故だかは判つてゐる。此の本の譯者の一人が柳瀬尚紀だからだ。
 本棚の奥から、彼の本を引つ張り出す。ふと裏表紙を眺めると定價が書いてある。四千八百圓。うむ、此の本が私の持つてゐる本の中で一番高いかも知れないな。
 で、本題とは全く關係ないのだが、目に附いた一節。


 「狼」と云ふ言葉を考へずに、家のまわりを三廻まわれ。


 これは何かと云ふと、くしやみを止めるおまじなひださうだ。なかなか面白い。

 さう云へば、こんな都市傳説もあつた。


 「むらさきかゞみ」と云ふ言葉を二十歳になるまでに忘れないと不幸になる。


「○○を考へるな」「○○を忘れろ」と云ふ命令に矛盾があるから面白いのだらう。この命令自體を覺へて置き乍ら對象となる○○を忘れる、と云ふのは不可能だからだ。忘れるなら命令そのものも含めて忘れなければならない。つまり、命令自體の無効化と云ふことか。
 自己言及文ともちよつと違うが、「言葉遊び」の一つのパターンになつてゐるのかも知れぬ。

 何故今日は旧字旧假名遣ひで書いたのかと云へば、特に意味はないのです。おしまひ。




5月9日(土)

 昨日買った『英語遊び』(柳瀬尚紀、河出文庫)を読んでいると、パングラムの例が載っていた。
 パングラムとは、「アルファベットの各文字をそれぞれ一度だけ使って意味のある文を作る」という遊びのことで、補陀落通信の第4回で取り上げたことがある。もう、一年半も前のことだ。
 その時あげた「究極の26文字文」は、こんなやつだった。

 J.Q.Schwartz flung V.D.Pike my box.
 (J・Q・シュワルツはV・D・パイクに私の箱を投げた)

 Zing! Vext cwm fly jabs Kurd qoph.
 (ひゅん! 怒ったクームのハエがクルド人のコーフを突き刺す)

 Warm plucky G.H.Q. jinx, fez to B.V.D.'s.
 (勇気あるGHQの疫病神を暖めてやれ。トルコ帽からBVDまで)

 で、『英語遊び』には新たにこんな例が載っていた。クレメント・ウッドの作だそうである。

 Mr.Jock, TV Quiz Ph.D., bags few lynx.
 (テレビのクイズ博士ジョック氏は、山猫をほとんど袋に入れない)

 こういったパングラムを、効率的に探す方法はないだろうか。
 作成するのは非常に簡単である。ちょっとしたプログラムを組めば、26文字の可能な組み合わせを出力することができる。問題は、そこからどうやって「意味のある文字列」を探し出すか、である。なにしろ、組み合わせは4.03×10の26乗とおりもあるのだから。
 検索アルゴリズムを考えようか、とも思ったが、本日はその気力なし。またの機会にしよう。(←と書いたもので、後日ほんとにやったものは少ないけど……)



5月8日(金)

 コーディング三昧の日が続く。
 しかし、NECの8ビットマイコン78Kシリーズのマニュアルはわかりにくい。索引がないのだ、索引が。

 たとえば、構造化アセンブラの疑似命令「PUBLIC」について調べるとする。
 まず、マニュアルの巻末を見るのは当然だ。日立のH8シリーズなら、ここに索引が載っていて一発で掲載ページがわかるのだが、78Kシリーズにはない。仕方がないので目次を見る。日立のH8シリーズなら、ここに命令文が個別に載っていて一発で掲載ページがわかるのだが、78Kシリーズにはない。「制御文」とか「疑似命令文」とか、大項目しか載っていないのだ。
 仕方がないので、「PUBLIC」ってのは確か疑似命令だったよな、というあいまいな記憶に頼って「疑似命令」のページを見る。ここでやっと、疑似命令の一覧表を見ることができる。ふむふむ、「PUBLIC」は「4.3.7.」項に掲載されているのか。で、「4.3.7.」を探そうとするのだが、各ページの上部には「4.疑似命令文」としか書かれていない。H8シリーズなら、「4.3.7.PUBLIC」まで書かれていたのに。仕方がないので、1ページづつめくっていってようやく「PUBLIC」の説明を読むことができた。しかし、そのころには何を調べようとしていたのか、すっかり忘れているのだ。なんとかしろよ、NEC! ……しくしく。

 ……などと、ここでNECをテロっていても仕方がないな。NECの方々、すまぬ。

 マニュアルというものは、商品を売る上で非常に大きな価値を持つのだが、ないがしろにされがちなものだ。実を言うと、私にも経験がある。まあ、私の作っている商品は分厚いマニュアルが何冊もいるような複雑なものではないのだが、それでもモノによっては100ページ近い分量になることがある。
 数年前、そんな分厚いマニュアルが必要な商品を開発したことがあった。これは、私の所属する事業部としてははじめての経験だ。当然、私たち開発メンバーにも企画メンバーにもノウハウはない。今までの商品と同じ感覚でマニュアルを書いて出したのだが、これがユーザーに不評だった。「わかりにくい」との声が多数上がってきて、電話や出張対応に追われる日々が続く。特に「索引を入れてほしい」との要望が多かった。
 確かに、そのとおりである。今までの商品はマニュアルといってもせいぜい10ページ未満だったので索引など必要なかったが、100ページもあれば索引は必須である。それがようやくわかった。開発者は、すでに商品の使い方は知っているのでマニュアルなどほとんど見ないのだが、その感覚でマニュアルを作成してはいけない、ということである。第三者が見て理解できることが大切なのだ。
 結局、この商品のマニュアルは、ユーザの声を取り入れ、テクニカルライターの助言もあおぎつつ(情けないことに、それまで私の事業部にはテクニカルライターなるものは存在しなかった。そういう発想自体がなかったのだ)全面改稿版を作成した。
 マニュアルを改稿したとたんに、この商品の売り上げは伸び始めた。商品自体は変わっていないにもかかわらず、である。
 マニュアルひとつといえども、おそろかにしてはいけないのである。

 78Kシリーズのマニュアルに対する「苦情」は、NECにちゃんと伝えておくことにしよう。


今日買った本:
『英語遊び』(柳瀬尚紀、河出文庫)



5月7日(木)

 会社に行くと、いきなりデスクのレイアウト変更。
 といっても、隣のデスクに移動しただけだが。開発メンバーが入れ替わるたびに、こういう小刻みなレイアウト変更がある。
 パソコンとキャビネットを移動させ、一時間ほどで終了。しかし、この一時間で体力を使い果たしてしまった。腰が痛い腕が痛い。ううむ、情けない。


 昨日書き忘れたこと。
 新装2号の「月刊コミックトムプラス」を買う。やはり最初に読むのは、みなもと太郎の『雲竜奔馬』だ。佐久間象山・吉田松陰・桂小五郎といったおなじみの面子も再登場した。よしよし。
 しかし、このタイトルはどうも言いにくい。前身の「コミックトム」に載っていたときの『風雲児たち』のままの方がよかったのに。内容的には『風雲児たち』をほぼそのまま引き継いでいるので問題はないはずだが。
 そう、「コミックトム」から引き続き連載している作品は、横山光輝の『殷周伝説』、星野之宣の『宗像教授伝奇考』、たがみよしひさの『お江戸忍法帖』などがある。これらはみんな、タイトルはそのまま引き継いでいる。なぜ『風雲児たち』だけ変更する必要があったのだろう? そのままの方がよかったのに。

 どうやら、編集部でも迷っているようだ。単行本の広告のページを見てそう思った。
 この広告、完結した作品は「全○○巻」、連載中の作品は「1〜○巻」と記されているのだが、『風雲児たち』は「1〜29巻」と表示されているのだ。「コミックトム」掲載分は、29巻までにすべて収録されているにもかかわらず、である。
 ということは、続巻が出る、ということか。『雲竜奔馬』が『風雲児たち』に戻ることを期待しよう。



5月6日(水)

 というわけで、今日はセミナー出席のため大阪城近くのOBP(大阪ビジネスパーク)にあるNEC大阪支社へ。いつもより30分早く起きた。連休明けの出張はしんどいなあ。ううむ、眠い。

 いつも思うのだが、ここOBPはなかなか環境がいい。駅も近いし、道も広くてきれいだし、ビルはみんな新しいし、緑も多い。私の勤務地の研究所は、駅から遠いし周囲は住宅街で店もほとんどないのだ。こんな環境で仕事ができたらいいなあ、とも思ったが、通勤は電車が混んで大変だろうな。なかなか理想的な勤務地というのはないものである。

 セミナーは意外と早く終了。会社に戻ろうとして携帯電話を拾ったりしたら困るので、さっさと直帰。
 おみやげに「バザールでござーる」のポストイットを貰った。わーい。(←そんなもんで喜ぶな!)



5月5日(火)

 ううむ、今日でゴウも終わりか。明日からは、また仕事が始まる。イヤだなあ。

 携帯電話の呼び出し音といえば、以前、新幹線のトイレの便器の下から聞こえてきたことがある。こんなところに落としたら悲劇だろう。手を突っ込んで拾うにはかなり勇気がいるからな。



5月4日(月)

 ゴールデンウイーク(以下ゴウと略す)中は、生活パターンが乱れてしまう。まあ、夏休みとか年末年始とか、長期休暇中はいつもそうなのだが。
 眠くなったら寝る。起きたくなったら起きる。腹が減ったら食べる。朝だとか夜だとかはまったく関係なくなるのだ。もっとも、完全に自分の生理的欲求のみに従えるわけではなく、電話やら新聞勧誘員やら横で寝ている妙齢の美女やら(←ウソ)にたたき起こされることもあるのだが。
 困ったものである。いや、このままの生活が続くのなら困りはしないのだが、休暇が終わったときに困る。なんとかして生活パターンを元に戻さねば。
 とりあえず、今日は早めに寝て明日はちゃんと朝に起きるよう努力してみるか。

 ……しまった、せっかく「ゴウ」と略したのに一度も使ってなかった。ゴウ。これでよし。
(というのは、昔新屋さんが使ってたネタだよなあ)


今日買った本:
『デビルマンレディー』4巻(永井豪、講談社)
『現代百物語・新耳袋』第二夜(木原浩勝・中山市朗、メディアファクトリー)



5月2日(土)

 ダイエーの喫煙コーナーでぼんやりと煙草をふかしていると、近くの小学生たちの会話が聞くともなしに耳に入ってきた。こんな会話である。(元の会話は大阪弁。読みやすいように多少改変してある)

「梅田の地下街に出る犬の話、知ってるか?」
「知らない。なんだ、それ?」
「終電がなくなったあと、酔っぱらいのおじさんがシャッターの閉まった地下街を歩いていたんだって。そうすると、向こうから犬の集団が数十匹、ぞろぞろと歩いてきた」
「うっ、なんだか怖いな、それ」
「しかも、ただの犬じゃない。病気で毛が抜けてボロボロになったやつとか、足が折れてるやつとか、目がつぶれてるやつとか、そんな犬ばっかりだ」
「で、そのおじさんはどうなった?」
「シャッターに貼り付いて、犬の行列が通り過ぎるのをじっと見ていた、って」

 うむ、その話は私も聞いたことがある。まあ、本当にあったことではないだろうが、いわゆる「都市伝説」のひとつ、というところか。子供ってのはそういう話が好きだからなあ。
 しかし、話にはまだ続きがあった。

「じゃあ、地下街に閉じこめられたおじさんの話は知ってるか?」
「あっ、それも知らない」
「終電に乗り遅れた酔っぱらいのおじさんが、シャッターの閉まった地下街を歩いていたんだって。仕方ないからタクシーでも拾おうと地上に出ようとしたんだけど、出口のシャッターが閉まっている。別の出口を探してうろついても、なかなか開いた出口がない」
「で、どうなった?」
「まるで迷路みたいな地下街を、おじさんは半泣きになりながら走り回った。すると突然、あちこちのシャッターが動き出したんだ。閉まるシャッター、開くシャッター……。迷路が作り替えられて、まったく別の迷路になったんだな」

 ……って、ちょっと待て! それは、SF作家・堀晃の小説『梅田地下オデッセイ』だろうが!
 おそらく、話をしている小学生自身はそんな小説のことなど知らないだろう。彼はこの話を「事実」として語っているのだから。
 いったい彼は、この話を誰から聞いたのだろう? 親から? 先生から? 友達から? あくまでも「小説のあらすじ」のはずの話が、どこで「事実」に化けてしまったのか……。そのあたりの経緯を知りたいものである。
 まあ、「知りたい」と思っただけで、その小学生に尋ねたりはしなかったのだが。しかし、都市伝説ってのは、こういう過程で発生することもあるわけだなあ。

 なお、堀晃の『梅田地下オデッセイ』の全文は、氏のページのここで読めます。


今日買った本:
『怪楽図鑑』(唐沢俊一監修、二見書房)
『西遊妖猿伝』2・五行山之巻(諸星大二郎、潮出版社)
『るろうに剣心』20巻(和月伸宏、集英社)
『封神演義』9巻(藤崎竜、集英社)



5月1日(金)

 某伝言板で読んだのだが、エレベーターの階数ボタンを間違えて押してしまったとき、ダブルクリックすればキャンセルできる、らしい。もっとも、新しい機種だけのようだが。
 これを読んで以来、「よし、今度エレベーターに乗ったら試してみよう」と思うのだが、いざエレベーターに乗ると必ず忘れてしまう。ううむ、手のひらにでも書いておくか。

 あっ、いま思い出した。数日前、電車の中で見かけた女性のことを。
 二十歳過ぎくらいだったと思うが、携帯電話を握る手の甲に何か黒いものがついている。なんだろう、と思って密かに観察してみると、マジックで書いた字だった。「明日保険証」と書いてある。なるほど、明日保険証が必要なのか。しかし、手の甲に書くとすごく目立つので、手のひらに書いたほうがいいぞ。
 そういえば、字が書いてあったのは右手の甲だったな。わかった、すると犯人は左利きだ!





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